力への意志の前に

自分を取り巻いている状況が自分にとって厳しいものであった場合、ミクロ的にはその状況に自分自身を最適化させ、得られる効用が少しでも大きくなるように利益をかき集めることがベストである。一方で、マクロ的には自分を取り巻いている状況そのものを変化させ、積極的にアクションを起こさずとも効用が得られる、あるいは不利益を被らないような構造を作り出すことが望ましい。
もしくは両者の中間の選択肢として、周囲の状況を少しだけ変化させ、不利益の矛先を他人に押し付けて自分だけ逃れる、という手段もありうるか。ライフハックとしてはいささか悪辣にも思えるが、実社会じゃ爆弾の押し付け合いもまま見られることではある。
いずれにせよ、どのような境遇におかれたとしても、その境遇自体を自分のアクションによって変化させることは可能だが、状況の可変性に気づかなければプレイヤーが取る手段は状況への最適化しかなくなるし、他のプレイヤーを視野狭窄に追い込めば追い込むほど自分は小さな労力で大きな利益を手にすることができる。
また、構造の可変性そのものを認識していないプレイヤーが多いほど、構造の策定に関わるルールホルダーにとっては都合がよい。強大な権力を持った専制君主が任意にルールを作り出せる世界では、構造を変化させるようなアクションが革命ぐらいしかないので、大半のプレイヤーは状況最適化のアクションを選択させられる。
ちなみに『論語』には「民はこれに由らしむべく、知らしむべからず」という言葉があって、この言葉はしばしば権力者による大衆蔑視の文句として用いられるが、これは誤解であろう。自分が学んだ語義は、「為政者は信頼を得ることはできても、為政の内容を理解させることは難しい」というものであった。

子(し)曰(いわ)く、民(たみ)はこれに由(よ)らしむべく、これを知らしむべからず。

ここは以前から「民には何も知らせてはならない、命令によって従わせればよい」と誤って解釈されてきたところである。「可、不可」は「できる、できない」の意。宮崎は「大衆からは、その政治に対する信頼を贏(か)ちえることはできるが、そのひとりひとりに政治の内容を知って貰うことはむつかしい」と訳している。(『論語の新研究』)

論語:泰伯第八:9 子曰民可使由之章(現代語訳・書き下し文・原文) - Web漢文大系

だんだん書きたかったこととズレてきた。いま考えているのは、我々が公共に寄り添いつつ、国家に対峙しつつ、ソーシャルな紐帯を維持しつつ、そのうえでどのように権力を行使するのか、ということだ。民主共和制は権力の淵源が被統治者にあるのであるから、我々が権力者でないということはあり得ない。力を行使しうる者はつねにその力について自覚的であれとはごく一般的な倫理規範だが、広く一般大衆に権力が分散した社会にあって現実的にどこまで自覚を求められるものか。ましてわが国のような空気読み社会では、四大権力すら空気の虜囚であることを免れないだろう。
中空の権力構造をどのように再編成するかという問いは、個々の功利的アクションを接合させていったときにどこかでぶつかる問題である、という印象を持っているが、今もって漠としたイメージがあるばかりで明確な像を結ぶに至らない。しかしながら、我々の手の届く範囲を飛躍的に拡大させた高度情報社会にあって、公共をいかに定義し、いかに形作るかという問題は、従来よりも重心をミクロに移したところからスタートしなくては解けないのではないか。今のところはそのように考えている。