いつか敗北する日のために

図書館の主要な業務の一つに、レファレンスサービスというものがある。ものすごく簡単に言うと、ユーザーの疑問や質問に答えることだ。「○○について知りたい」「××について調べたい」というユーザーが来た時に、求めている情報や資料、あるいはその調べ方を提供する役割である。
ということを踏まえたうえで、以下に引用。

分からないものを検索する

技術力が全くない人間であっても、検索エンジンは、正しく問いさえすれば、あらゆる答えを教えてくれる。
問題になってくるのは「問いかた」で、自分が抱えている問題をどう言語化すればいいのか、 分からない人はたいていの場合これが分からないし、分からないものは、検索できない。
「問題」と「検索」との間に、誰か「人」に入ってもらうと、「何が問題なのか分からない」問題は、 しばしば検索可能な、解答可能な問題に置き換わる。
次世代の検索エンジンは、たぶん「ここではないどこか」みたいな言葉を検索して、 満足のいく解答を返してくれるようになる。
「ちょうどいい暇つぶし」だとか「面白そうな本」みたいな、検索不可能ワードの検索需要は必ずあって、 そんな「次世代」は、たぶん人がたくさん集まる場所から発生する。
疑問を持って、SNS でヒントをいただいて、検索して、Twitter に疑問を投げて、 blog のコメント欄でヒントをいただいて、さらに検索して、解答にたどり着いた。
Twitter クライアントをホットキーで瞬間起動する - レジデント初期研修用資料

長いので省略したが、このエントリに記された一連の流れは、図書館に持ってくればそのままレファレンスと呼んでも差し支えないだろう。
ユーザーが図書館を訪れるとき、「わからないこと」の中身が常にきちんと整理されているとは限らない。わからないという思いだけをハッキリと抱え、しかし「何がわからないのか」については曖昧なままで、ユーザーから質問をぶつけられることは珍しくない。そういう時に我々は、ほんの少しだけ検索し、得られた情報をユーザーに示し、知りたいことは何なのかを逆質問によって引き出し、対話を重ねていく。ユーザーが投げかけた言葉、こちらの逆質問に対する応答、解となる情報を求めるに至った事情や動機、ユーザーの身振りや表情に至るまで注意深く観察し、相手の意図を把握するとともに、質問の主題を明確にしていく。「レファレンスインタビュー」とは、そのようにしてユーザーの抱いた疑問を研ぎ澄ましていく対話技術だ。リンク先のエントリは、図書館の代わりに検索エンジンとblogとtwitterが、ユーザーの疑問をうまく編み直して解決に至った一例とも言える。
そのうえで、上記引用部分はライブラリアンとして非常に示唆的だと思う。自分はこのダイアリでたびたび、「ライブラリアンは情報ナビゲータだ」ということを言っているが、人間の頭脳にはもともとナビ機能が備わっているんだから、多少なりとも知的トレーニングを積んでいれば、図書館に頼ることなく検索エンジンソーシャルメディアを駆使して目的の情報に辿り着くことができたりする。これまで人間が担ってきたレファレンスの全てではないにせよ、結構な部分を代替することが出来るだろう。あるいは、こうして blogなどに疑問と解答と問題意識をセットで書き残しておけば、それは一つのレファレンス事例であり、後で誰かが検索して参考にすることもあるかもしれない。
技術の発展というのは、それまで人間が担ってきたことを人間がやらずに済むようになるということでもあるから、セマンティック技術とやらが従来のレファレンスを代替するようになるのなら、人間はさらに高度な、あるいは広範なレファレンスを心がけるしかないだろう。今どきラッダイト運動でもあるまいし、「テクノロジーによる人間の代替」にビビってもしょうがない。
そもそも専門職というのは、自分の持つスペシャルな技能がコモディティ化すること、単純化すること、あるいは陳腐になることを歓迎するのが当然であって、いつまでもスキルが腐らなかったら、スキルアップに励む必要が無いわけだから、その専門職そのものが沈滞してしまうだろう。専門家の働きによって価値を認められた技能・技術は、それだけ速く世の中に広まっていくはずだから、言い換えれば、専門職とは自分のスキルが不必要になるような世の中を待望している人間ということになる。
自分がスキルを向上させていくスピードが、従来のスキルが陳腐化するスピードに敗れ去るとき、その専門家はキャリアプランの修正を強いられる。それは「引退」かもしれないし、他業種・他職種への「転身」かもしれないが、いずれにせよ、その敗北の瞬間は必ずやってくる。かつて『沈黙の艦隊』という漫画の中で、ジャーナリストのボブ・マッケイが海江田艦長に対し「あなたは自らが敗北する瞬間のために深海にあり続けようというのか!」みたいなセリフを言っていたと記憶しているが、自分が敗北する瞬間に向かって全力疾走するのは、すべてのプロフェッショナルが背負った業のようなものかなと今は考えている。もちろん「やまと」と違って、人間は敗北しても知恵と勇気によって再起を図ることができるのだけれども。