残酷な観客のテーゼ

夏の全国高校野球大会が終わりました。甲子園の酷暑の中で戦った選手の皆さん、お疲れさまでした。月曜は仕事だったので優勝の瞬間は見ておりませんが、日曜日の決勝戦第1試合はテレビで見ていました。球史に残る熱闘と言ってよい、すばらしい一戦だったと思います。
さて、この決勝戦について何か書いておきたい気持ちはあるのですが、どうにもうまくまとまりません。「いい加減エースの酷使は辞めろよ」とは、しばらく前から思っていたことではありますが。
野球に限らず、僕たちは大体において、限界ギリギリの状況で苦闘する人間ドラマというものが大好きです。格闘技でも、先日のHERO’Sで桜庭がほとんどKO負けの状態から逆転勝ちした一戦に、多くの観客はカタルシスを覚えました。かつて人気を博したNHKの「プロジェクトX」だって、苦難の状況から逆転を果たしたエンジニアやサラリーマンの姿に、感動した人は多いと思います。それらと同様に、夏の高校野球においては、観客にせよメディアにせよ「悲劇のヒーロー」を欲しているのではないでしょうか。言ってみれば、甲子園の人気を高からしめているのは、酷暑の中で必死に戦い抜く選手たちが持つ、その悲劇性にあるのでは、と。
駒大苫小牧の田中投手にせよ、早稲田実業の齋藤投手にせよ、相当に高いレベルのピッチャーだと思います。このまま大成すればプロでも記録を残せそうな、そんなすばらしい可能性を感じさせる若い逸材たちが、たった一つの栄光を目指して戦い、そして将来の可能性と引き換えに輝かしい絶頂を手にする。うーん、確かに引き付けられるシチュエーションではあります。もし酷暑の連投という要素がなかったら、悲劇になりませんもんね。いやまったく、観客とはなんと残酷なものでしょうか。
ところで、決勝戦再試合、駒大苫小牧香田誉士史監督は、田中を温存して控えの菊池を先発に送りました。誰もが田中と齋藤の投げ合いを期待していたのでしょうが、そんな空気の中でマウンドに登り、予定調和のように1回途中で田中に代わった菊池投手は、いったいあの舞台で何を感じたのだろう。自分に対するふがいなさか、あるいは安堵感なのか。