「水を運ぶ」ことの意味

一昨日の件については、引き続き情報提供募集中のようです。
さて、Beautrinoさんは「水を運ぶ選手というのがどういう選手かイメージできないので、選手のプレイ位置をデータ化して蓄積することで、運んだ水の量を計測できるのではないか」(要約)ということを仰っておられますが、確かにオシムがどのような選手を求めているかは、わかるようでわからないですね。たとえば先日のイエメン戦後の記者会見では、

美のために死を選ぶという選択はある。だが、死んだ者はサッカーができない。美しさを追求して死ぬのは自由だが、そうなるともうサッカーではない。現代サッカーのトレンドはそうではない。今はどんなに美しいプレーをしたかではなく、何勝したか、それが求められる。残念ながら。
http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/japan/kaiken/200608/at00010268.html

と述べています。一部ではこれを、「ファンタジスタ(=中村俊輔)嫌い」と読む向きもありますが、たぶん違うでしょう。それならストイコビッチを重用するわけがないし。現代サッカーではファンタジスタが個性を発揮する余裕が限られていることを念頭においたうえで、ファンタジスタの個性がチームの織り成す創造性とぶつかって実行力が低下することを避けたいのだと思いました。
一方で、W杯時のインタビューでは

サッカーというのは、バランスを保つために水を運ぶ役割をする選手が必要になってくるわけです。そういう意味ではジーコのチームでも同じことが起こっているわけで、その話をさっきしていたわけです。福西ひとりで水が運べるでしょうか。
オシム監督(千葉) W杯共同インタビュー -1-

と、福西だけでは水を運ぶ役割は果たせないことを述べています。僕自身は、豊富な運動量、攻守両面における献身性、人に使われるタイプ、といったイメージかな。単純にディフェンシブな中盤とか潰し屋というだけではなくて。まああんまり「水を運ぶ」というフレーズにこだわっていても、オシムの目指しているスタイルは理解できないんでしょうけど。
たとえばパン屋や鍛冶屋などの職人は水がなければ仕事にならないわけで、チームとしてのパフォーマンスを意味あるものにするためには「水を運ぶ」作業は必要不可欠であると。そしてジーコジャパンでは人を使うことに長けた選手が多かったことを考えると、オシムが何を志向しているかはおぼろげながら掴めるんじゃないでしょうか。
あと関係ないですけど、Beautrinoさんの「ボールが詰む」という言い回しは非常にうまいなと思いました。やべっちFCなら「巧!」ですね。