人はいつか死ぬ

仮の話だが。たとえば僕が、RV車の座席で眠る幼児だったとして。あるいは南洋に生まれた仔猫だったとして。中絶を決意した母親のうちにある胎児だったとして。パロマのガス器具を使っていたとして。自分の意思とは別に、突然に死を与えられる可能性はゼロではない。路上で兇刃に襲われることもありうる。自宅が放火されることも。痴情のもつれで首を括られることも。あるいは戦場で飛び交う弾丸、あるいは重厚な回転ドア、あるいは誤作動するエレベータ。それぞれ可能性は極小であるけれども、僕らは日常において、死に至るさまざまな理由の中をすり抜けながら生きている。結局最後は死ぬとして、一体どのような経緯で死ぬのがもっとも無念だろうか?
もしも僕が死ぬとしたら、突然現れた殺人者に面と向かい合って命を落とすよりは、他人の不注意で死ぬほうが無念な気がする。機械の設計ミスによって死ぬのは、なおさら無念だろう。「殺される」ならば、少なくともそこには憎むべき相手、自分に殺意を向ける存在がある。自分の命を通じて向かい合う相手がいる。しかし、不手際や不注意は殺意とは違う。殺意すら向けられず、何者かの錯誤のために「死なされる」のは、たぶんいやだと思う。その点、僕の中には確かに、死の原因についての序列がある。良いことか悪いことかはわからないが。
どんな生き物だっていずれは生から離れる。命が大切なものであるならば、その命を失う失い方にだって何がしかの思いを抱くのは自然なことだろう。どうせ死ぬのなら、せめて意味のある死に方であってほしい、と。
(某ダイアリーのコメント欄を見てふと思ったことです。エントリに関係ないのでTBはしません。)