確かな手がかりが欲しくて

昨夜、azumyさんのコメントにレスをつけながら、ふと何か思いついたような気がしたのだが。

子育ての知見の多様性については、私自身は、本質的に子育てとはそういうものだと思っています。正しい子育て、これをしておけば間違いない子育てというものは存在しないと。ですから、ある親が、私はこうして子育てした、というのをそのままなぞったとしても、次にうまくいくとは限りません。
しかし、一方では、これは知っておくべし、守るべし、ということも存在します。赤ん坊の生理的・保健的特性と関係すること(食や発達と関わることなど)や、事故を防止するための手だてなどです。
今回の「親学」提言とそれを巡る意見には、このあたりが混同されているきらいがあると感じます。前者はマニュアル化できないし、仮にマニュアル化しても成功しない。後者はマニュアル化して広く広報すべきである。
「親学」提言に期待する若年者層の中には、前者のマニュアル化を期待している人も含まれるように思います。なぜなら、実際に提示された「親学」提言にそれが含まれていたからです。
「親学」を求めたのは誰? - The best is yet to be.

結局今になってもうまくまとまらなかった。関係ありそうな文章をコピペしてお茶を濁しておく。

まん延するニセ科学」のキーワードである「合理的な思考のプロセス」は大事だが、これは一般人には導入コストが高く、ニーズにも十分応えられない。二分法は不合理と言ってみても灰色の世界は不安であり、不安の解消こそが望まれているのだから。
「合理的な思考のプロセス」を大事に、というメッセージには、不安を抱えたままタフに生きろ、あるいは「コントロール可能な脅威はもはや脅威ではない」とドライに割り切れ、というような裏メッセージが隠れている。失われた「安心」を夢見て二分法にすがる人たちには、その裏メッセージこそが受け入れがたいのだと思う。
安心について - rna fragments

彼らの動機がある程度実現可能であれば、彼らがトンデモを選択する可能性は減るだろう。しかし、彼らの直面している問題はあまりにローカルで他人が解決策を提示する余地さえないのがほとんどではないだろうか。もし、そうなら、その解決は最終的には彼ら自身の試行錯誤の中で行なわれなければならない。私は科学的な分析が不可能な状況であっても、成功可能性の高い行動指針はある程度学習可能ではないかと考えている。この点は議論の余地があるが一応、仮定として認めて欲しい。その学習を可能にするのは個々人の試行錯誤である。
トンデモの空白をどううめるか - 痴呆(地方)でいいもん。

なんか新しい家電製品を買ってきたときのように、うまくこれを使いこなすには「どのボタンを押せばうまく使えるのか」という風に社会を捉えている。頭の中の知識量で幸せになれる十分条件が測られると思っている。んなわきゃないのに。
真面目なほうの大学生にも、「経営学を学べばそれでうまくいくわけじゃない」というと「じゃあ何か資格を取ればいいんですか」とか真顔で聞き返してくる。違う違うよ。だから何で世間を事前に準備できる知識で潜り抜けられると思うの。不可知性に直面してその都度なんか工夫しなきゃ、そういうところでクリエイティブでなければ問題なんか解決できないに決まっているじゃない。
http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20070118/1169090147

未知のフィールド、未知のステージに入っていこうという人々が、少しでも安全に進もうとして道しるべを求めることは、ちっともおかしなことではない。道しるべが提示されたうえで、その道しるべにどのくらい頼っていいのか、道しるべの内容はどのくらい妥当なのか、あるいは自分で創造力を発揮しなきゃならないのはどこなのか、考えたり論じたりするステップが出て来るのだろう。「道しるべを示すのはお上の仕事ではない」という批判は確かにありうるんだけど、何もしないのとどっちがマシかというと、いささか難題という気はします。