迷妄を討ち払うもの

どこのブログで読んだんだったかな、「科学は科学でないものを排除するようなことはない。それは科学にそなわっている本性ではない。しかし世間では、なぜか科学についてそのように誤解する向きが多い。」というようなことを語っているエントリがあった。僕はそういう嘆きについてうなずくところ大であったけれど、一方で世間でそのように認識されるのもわかる気はする。
サイエンスにどっぷり浸かっているわけではない多くの人々にとって、自然科学の発展の歴史とは、世の中の未知や迷信を解明する営みの積み重ねと、ほとんどイコールであったと思う。いや自然科学に限らず、学術的営為というのはことごとく、迷妄を討ち払うものとして機能してきた一面があるのではないか。
それは科学にそなわる「強さ」や「正しさ」を象徴するイメージだけれども、「正しくて強いもの」から遠ざかろうとする心性も人間の中にはあるのであって、擬似科学およびその他もろもろにすんなり絡めとられる人が絶えないのは、科学がどのように未知と向き合っているのか、その態度のところまでは理解されていないからじゃないかと思う。
ブラックボックスの中身が科学によって白日の下にさらされたとして、そこに現れたのが複雑なカムとギヤとベルトの集合体であったなら、わからない人にとってはやっぱりわからないままだろう。何かが明らかになったのは確かだけれど、何が明らかになったかはわからない。そういう人にとっては、未知を未知のままにはしておけない科学の不寛容なイメージだけが残る。
それを科学のせいとしてしまうのは酷なことかもしれないけど、ロウカーストがハイカーストを嫌悪するがごとく、不条理な反感を得ることは世間一般では珍しくないのだし、そういった人々も共に生きる衆生なわけで、どうにか付き合いながらやっていくしかないのだろう。顕教から密教に、誰もが到達するわけではないのだ。