見る前に跳べ

哲学の偉人も誰がどの言葉を言ったかなんてどうでもいいでしょ。
どんな考え方が、どんな風に対立して、どんな風に発展していったのかってことを理解するまで文献を読んでいれば、名前なんてものは自然に覚えいきますって。
名前がちょっくら出てこないぐらいは、たいした問題じゃないと思います。
賢い人と話していると「ああ、それはポパーですね」とか高名な方のお名前がさらさら出てきたりしますが、賢い人たちの中に人名を必死で覚えようとした人なんていません。賢い人のふりをしたい人が、あらすじ本や図解まとめ本で覚えるのとはわけが違うのです。
大学教員の日常・非日常:覚えること、覚えさせること

「区々たる情報を暗記しても、それを知識として活用できなくては意味がない」という趣旨と理解した。まあ一般論としてそれは全く同意なのだけれども、個人的には「とりあえず覚えておく」ことの効能も否定したくない。人はその成長段階に応じて出会うべき知識というものがあるんじゃないかと僕は思っていて、つまり、情報を先にインプットすることは理路をインストールする前段階の作業として有意義なんではないかなと。「仏作って魂入れず」という言葉があるが、仏像を作らなくては魂を入れることはできないわけで、意味もなく覚えた情報が後になってストンと腑に落ちる経験は誰でもあろう。何というか、器に中身が馴染んでいくステップって、実感としてすごく気持ちいいんですよね。評価する立場からすると「そんな悠長な話ができるか」と言いたくなるかもしれないけど、詰め込みにも詰め込みなりのプロセス最適化がありうるんじゃないかなと。