必修カリキュラム擬装について

http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/edu/news/20061027k0000m040122000c.html
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20061027k0000e040074000c.html
みんな「履修漏れ」って言ってるけど、これは明らかに擬装ですよね。89年告示ぶんの学習指導要領で世界史が必修になったことは学校も教委も知っていたはず。生徒だって指導要領くらい読むし、一方的に被害者とは言えないでしょう。
というか被害者というくくり方もおかしいな。受験に限って言えば、未修者と既修者では未修者のほうが受験勉強に時間を割けるから得かもしれないが、合格した後なら世界史の知識を習得している既修者のほうにアドバンテージがある。文部大臣が「不公平はあってはいけない」と言っているけど、受けるべき授業を受けられなかった未修者こそ損しているとも言えるわけで、大学受験だけを平等原則に照らし合わせる判断は、なんとも違和感がありますね。
さて、問題の原因に大学受験との絡みがあることは明らかで、擬装していた学校が公立校や地方部に多く見られることはその証左でしょう。都心部だと予備校や塾は多いし、一流進学校なら受験の実績もノウハウも十分ある。一方で地方の高校は、予備校などが少ないから受験指導は学校が引き受けなくてはならないし、一流とまでは言えない一流半の進学校は、期待されている実績を挙げるために出来ることは何でもやりたいから、「子供のため」という大義名分を掲げてカリキュラムを操作するでしょう。
学校にとって直接の消費者は生徒+保護者であり、消費者の要望に応えることが善と認識されている以上は、こういうことが起こるのは必然であったでしょう。大体が大学の方だって、受験生の負担を減らすためということで受験科目を減らしまくっていて、以前にも生物がいらない医学部が話題になっていた。たとえば僕の友人が進学した某公立大学の経済学部は、国語と社会科だけで受験できるそうです。英語も数学も使わないって、どんな経済の勉強するんだよw。
いろいろと思うところがあってまとめきれてないのだけれど、たとえばセンター試験バカロレア的な資格試験にして必修科目をその試験に組み込んでしまえば、履修していない科目を履修したと擬装する意味は無くなるわけで。「受験に必要無い科目は勉強したくない」みたいな主張を聞くと、なんとも近視眼的だなあと思うけれど、大学からリベラルアーツが消えてしまった昨今、そういう学びは高校段階で行うしかなく、本人の意向によらずパターナリズムでいくべきなんじゃないのと僕は思っている。学習指導要領に規定されている学習内容が、本当に高校生にとって必要な学びであるのなら、そこはきちんとルールを守るインセンティブを導入するべきだ。そうでないなら学ぶべき内容を軽くするのが筋であり、国民はそのような声を挙げるべきであろう。この問題で規制をかけるのは文科省しかなく、官庁は国民の要請を求めているのだから。
(追記)以下に、このカリキュラム擬装の件について参考になるエントリをあげておきます。いずれも面白く刺激的です。