歴史に相対する感覚

hazama-hazama氏の1月2日付のエントリに対してブックマークでコメントをつけたところ、丁寧な返信をいただきました。先方はこちらの反応を期待してはいないかもしれませんが、僕なりの見方を記しておきたいと思います。なお、反応が今日まで遅れたのはこちらの都合によるものです。

ブクマコメントには基本的には反応しないことにしているが、id:rajendra氏より興味深いコメントを頂いたので、ちょっと返答したい。

あまり同意できない。歴史は正邪善悪ひっくるめて歴史であり、その複雑さ奥深さに思いを致せば、好悪の感情を超えて畏敬の念を抱くのは別に奇異ではないと思うのだけど。

歴史を「正邪善悪」で割り切ることができれば、「複雑」どころか「単純明快」であると思う。歴史が複雑である所以は、単純に「正邪善悪」で割り切れないところにあると思われる。

次に「畏敬の念」であるが、これは現代からかなり時間的距離のある歴史に対しては抱きやすい。例えば、河原者の歴史的役割に対しては畏敬の念を抱くこともできる。しかし、江戸以降の穢多・非人に対してはどうか。これは近代以降現在に至るまでのの被差別部落問題に直結する。他にも、アウシュビッツ文革に対して好悪の感情を超えて畏敬の念を抱きうるのか。あるいは、今現在そのものも歴史だとすると、拉致被害者問題や教育問題も「畏敬の念」を抱きうるのか。抱きうるのかもしれないが、それだけで終わりというものではないのだろう。やはり歴史は複雑であり、「畏敬の念」だけで単純に割り切れるわけではない。

「畏敬の念」とは、歴史的事象と自己との間で格式を定めることであり、それは一種の「思考停止」とも言える。歴史に対する「畏敬の念」とは歴史の重要な要素の1つであると私も思う(私はそれをロマンと言った)、それに捉われることも歴史研究には弊害となるだろう。

多分、保守の方々は「畏敬の念」による歴史の格式化を図りたいのだと思う。歴史に好悪の感情を超えて「畏敬の念」を抱けない私はやっぱり格式から外れた劣等国民と言うことになるのだろう。
ちょっとだけ帰ってきた過下郎日記 - 追記

歴史は複雑であるので単純に正邪善悪で割り切ることはできない、という点には同意します。だからこそ、ひっくるめて受け止めるしかないのです。僕が言う「畏敬の念」とは、歴史に向かい合うときの態度のことです。それを「ロマン」と呼ぶと、僕の感覚とは少し違ってしまう。これは、「畏(おそ)れ」とか「ロマン」という言葉のイメージが、僕とhazama-hazama氏では異なるからでしょう。僕は、丁重に扱うが敵意は持たず帰依もしないというほどの意味で「畏敬」という言葉を用いていますが。
もう少し続けます。歴史の中の個別的事象を取り上げてみれば、それはそれぞれ好悪の感情を抱くことはあるでしょう。アウシュビッツ文革も、僕には「好」よりも「悪」の感情のほうが強い。けれども、歴史における個別的事象を眺めるならば、またそれぞれに事情、経緯、理由、動機、背景があるでしょう。功罪があり、偶然と必然があるでしょう。好意や悪意を抱いていては、それらを主観的に解釈してしまうことになります。
個別的事象から紡がれた物語を歴史と呼ぶならば、歴史は決して主観から逃れられないのかもしれない。たとえそうでも、主観を排除しようという意志を抜きにしては、その物語は妥当性を欠いた独りよがりなものになってしまいます。だから僕は、「好悪の感情を超え」て歴史に相対しようとするのです。もちろん常にそれが実行できているとは言いませんが、可能なかぎりそのような態度を取ろうとしているつもりです。また、言葉は違えどもそのように先入観を排して歴史を眺めようとする人々は少なくないと僕は思っています。だから、「好悪の感情を超え」た態度を取ることについて、「奇異ではない」と評したのです。そのような態度は僕には腑に落ちるものですから。
繰り返しになりますが、歴史の中の事象を一つ一つ切り取ってみれば、それぞれに好意や悪意を抱くことはありえます。好意を持つものは白歴史に、悪意を持つものは黒歴史に、特に魅かれてしまうかもしれません。しかし僕は、自分が歴史を眺めるときには、そのような先入観から自由でいたい。先入観から完全に逃れることはできないかもしれないけれど、物語を歪めるような見方はできるだけ遠ざけたい。だから、「畏敬の念」を持って歴史を受け止めようとするのです。それを「思考停止」と言われればそうかも知れません。けれど受け止めるまでは先回りして思考すべきでは無いように思います。解釈は受け止めてからしたいのです。フォークを待っていてはストレートが打てないではありませんか。相手がフィル・ニークロ*1ならそれでいいのかもしれませんが。
話が変な方向にそれました。時間的距離の小さい歴史については畏敬の念を抱きにくいという見方にも、それなりに理解できるつもりです。でもそれは、別にそれでいいんじゃないでしょうか。卑小なる我々は、たしかに近しい事象ほど主観を交えやすくなります。しかし、人間はみな長期的には死んでいるに等しい。多くの時間が流れた後、次のミレニアムあたりになれば、アウシュビッツ文革も、また歴史の一部として冷静に判断できるようになるでしょう。源高明は無実の罪によって政治の中枢から追われ、当時の民衆は彼に同情的だったそうですが、多くの現代人にとってそんなことは年表中の一項目にしか過ぎません。
後半の2つのパラグラフについて述べます。前述のように、畏敬の念とは「歴史的事象と自己との間で格式を定めること」というよりも、歴史的事象に相対する時に余計な主観を混入させないための態度を指して言っています。純粋な客観はありえないとしても、主観的に見る度合いというものがあるでしょう。好意や悪意を抱くよりは、畏敬の念を抱くほうがまだしも物語を歪める度合いは小さいのではないでしょうか。そして、「歴史の格式化を図りたい」のではないかというhazama-hazamaさんの疑念が、前のエントリでおっしゃったような

「歴史」から「気持ちのいい」部分だけを取り出して、他は打ち捨てる

という態度を指すのならば、僕もそのような態度には賛成できません。歴史の「闇」の部分もまた歴史の一部として、畏敬の念を持って相対したい。好意や悪意を遠ざけつつ歴史と向かい合いたい。歴史が内包する個別的事象はそれぞれに正邪善悪のさまざまな性質を帯び、単純明快どころか複雑かつ深遠だけれども、それゆえにひっくるめて受け止めよう。物語の解釈はその後で始まるのではないか。僕はそのような意味であのコメントを付ております。無自覚あるいは素朴に過ぎるという批判なら甘んじて受けますが、僕は歴史学徒としては劣等生もいいところでしたので、自身の政治性まで考慮してはおりません。
最後に一つだけ。有象無象の集積と連環も、物語を織りなす糸の一筋には違いなく、したがって歴史と完全に分断された人間なんていないのではないですか?たとえ僕がウィルタやサンカだったとしても、何がしかの物語とともにその生はあるでしょう。それは結局は歴史と呼ばれていくように思います。その物語への愛憎はともかくとしても。
ともあれ、コメントに返事をいただいたことで自分なりの考える契機を得ました。hazama-hazama氏には感謝しております。どうもありがとうございました。

*1:端的に言うと、ナックルボールだけを投げ続けたMLBのレジェンドプレーヤー