たとえば僕が死んだら

たとえば僕が、RV車の座席で眠る幼児だったとして。あるいは南洋に生まれた仔猫だったとして。中絶を決意した母親のうちにある胎児だったとして。パロマのガス器具を使っていたとして。自分の意思とは別に、突然に死を与えられる可能性はゼロではない。路上で兇刃に襲われることもありうる。自宅が放火されることも。痴情のもつれで首を括られることも。あるいは戦場で飛び交う弾丸、あるいは重厚な回転ドア、あるいは誤作動するエレベータ。それぞれ可能性は極小であるけれども、僕らは日常において、死に至るさまざまな理由の中をすり抜けながら生きている。
人はいつか死ぬ - The best is yet to be.

以前にこんなエントリを書いたわけですが。大石先生のブログで、風見しんごさんの長女が亡くなられた件に絡めて、下記のように綴っておいでです。当方の心象に通じるところを感じました。

そこが横断歩道で、青信号であったという事実はいかんともし難い。起こった結果の非は一方的にドライバーにある。けれども、たぶんドライバーなら誰でも起こりうるミスでしょう。だからこそ気を付けて欲しいけれど。
自分の子供がそういう目に遭ったら、貴方は親として許せるか? 私はたぶん青信号でも信じるな、周囲の車だけを見るんだ、と徹底して教育しなかった自分を責めるでしょう。犯人を何処まで許せるかは全く自信が無い。
ただ、川村@テロ朝氏のように、「軽い罪だったらいけない」という発想をマスゴミの中にいる人々が抱くとしたら、それは違うと思う。起こったことは悲劇だし、完全にドライバーの過失だけれど、それでもただの、あって欲しくはないけれど、ありがちな過失事故に過ぎない。
人間は、時として悪意の欠片も存在しない過失で死ぬのだという、文明社会の現実と向き合う勇気と諦観を忘れるべきでない。
デジャヴュ-宮崎県知事選: 大石英司の代替空港

それぞれ個別の事例を切り取ってみれば、加害者・被害者のどちらかに一方的に落ち度があるケースも、無論あるでしょう。しかしながら、普通の人間がありふれた日常生活を送っていたとしても尚、我々は何の過失も無く被害者として命を落とし、あるいは何の錯誤も無く加害者として人を死に至らしめることが有り得ます。自分が今立っている足場など、ふとしたことで簡単に崩れ去る可能性があるのだという想像力を、持ち続けておきたいと思いました。