私を"先生"と呼ぶな。

先の返信エントリにまたもトラックバックをいただいたので、言及されたところを中心にお返事。

実際に教壇に立つ福耳先生としては、「ニュータイプ(福耳註:創造性のある人材のこと)でなければ通用しないぞ」という思いもあって歯痒さを感じておられるのでしょうが、創造性を持った人材がホイホイ現れたら希少価値も薄れてしまうわけですし、毎年1人出れば御の字と思って、肩の力を抜かれても良いのではないでしょうか。

それもそうだと思います。 rajendraさんの見解に全く同意、正しいと思います。みんな発揮できる程度の差異化能力はこれまた「社会的創造性」というほどの競争力を持たない。せめて「個人的創造性」といえる行為もこれまたなかなか手が届きにくい。それは現実だと思います。でもこれまで世の中は結構なんとかやってきたじゃないか。これまではやってきたですよね。でもこれからはどうなんでしょう。

なんかデストピア的なことを言いますが、僕の予感ですが、「これからは創造的でなければ通用しない」という命題と、「ほとんどの人材は創造的たりえない」という命題、どっちも正しいとすれば、「これからはほとんどの人材は創造的たりえないので通用しない」のじゃないかね、なんて悲観しています。いやいや、そんな言語化とか自動化とか情報化とかがそんなにはクリティカルでない仕事がたくさんあるじゃないか、サービス業という沃地が。うーむ。実はそれについてもなんかあれなんですよね。
http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20070201/1170274091

うーん、「これからは創造的でなければ通用しない」という命題は、果たして成立しますかね?前にも書いたとおり、「人材のイノベーションはゆるやかにしか進まない」と僕は思っています。ということは、「創造的人材は希少」という前提条件のもとに世の中の仕組みも変化していくでしょうから、創造的でないがゆえに脱落する「落ちこぼれ」も大して現れないんじゃないでしょうか?人間はしぶといですから、何とかして時代についていくのではと僕は楽観しています。
もしかしたら、2〜300年後の人類は我々よりも遥かに高い創造性を持っているのかもしれません。しかしそれは、その時代の人間にとっては当たり前に保有している創造性であり、その力を身に付けるのにさしたる苦労はないでしょう。ちょうど、現代の中高年がOA機器の扱いに苦慮する脇で、若い世代が苦もなくデジタルツールを使いこなしているように。時代が要求する創造性の度合いは、その時代において供給しうる創造的人材の能力を大きく超えることは無いのではないかと。

これから来ますよ、吉林省雲南省から劉さんとか陳さんとかがもっとたくさん。だって呼んだ方が日本経済のためだっていう理屈はいろいろ立つもの。そして彼らは母国では知的訓練をかなり受けている、ハングリーでアグレッシブで*3、アドレナリンがドクドク分泌されているようなタイプが。まあそうでなけりゃ海を越えては来ませんし。
(中略)
そのとき、日本人ネイティブは、なんか挟み撃ちじゃあないですか、クリエイティブな人材と漢民族の間で*4。大丈夫かしら、というのが昨年春以来ずっとあるのです。じゃあ日本人、どうするか。ライフスタイルを来日中国人労働者に合わせる?合うのか?合わせられるのか?

言語ギャップを越えて日本で活躍する劉さんとか陳さんというのは、相当優秀な人を想定してるんですよね?以前のエントリでは以下のように書かれてますし。

しかも日本社会のこれからの状況としては、そこにかなり優秀でやる気がある中国人労働者たちが入ってきている。これからもっと入ってくる。そういう環境で、どういう仕事についてどれだけ持ち味を発揮して、そして社会に対してどこでどう自分の「かけがえのなさ」を組み込んでいくのか、そのことはこれから非常に難しい問題で、しかも日本社会は非貿易財の分野までその「中国人との競争」に巻き込まれる状況に慣れていない。やったことがない、か。
ちょっとショックだったのは、中国から日本の「入学容易大学」に来て、コンビニでバイトしているようなお兄さんが、向こうでは大学の医学部を出て、そのキャリアをなげうってやる気に燃えて、日本に来て、ばりばり仕事をして、こちらに適応しようとして、しかもその人たちは非常に日本語における漢語系の語彙に既に通じていて、従って抽象概念を把握することは素早い、ということです。
http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20060730/1154346366

そういう優秀な人なら、どしどし来てくれて構わないよ、という気分です。だってその方が我々が得る幸せは大きいですからね。ではそのとき、クリエイティブでない普通の日本人はどうするのか?そりゃ既存の市場で劉さん陳さんと張り合うか、劉さん陳さんが入ってこなさそうなフロンティアに出て行くかしかないでしょう。労働市場を閉鎖することはできないでしょうから、競争は不可避です。教え子を心配する気持ちはわかりますけれど。

問題にすべきは「日本の競争力のために人材を育てる」段階ではなくって、「日本国内での個人の競争力のために自分を鍛えるには」ということなのに、しかもそれは今後は「なにかが言われたらできる」ことは当たり前で、「言われなくても自分から応用を広げていく」ことにならなければ到底中国人に勝てないのに、なにかひとつのこともちゃんと取り組まないままに大人になれば、いまさらなにかちゃんとできるようになるのか、極めて不安なキャリアパスで来ちゃった学生がたくさんいるんじゃないか。
http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20060730/1154346366

なんだか前と同じことを言っているようで恐縮ですが、それって高等教育でカバーできる範囲じゃない気がします。成長期、義務教育段階で周囲の大人が教えておくべきことですよ。
未知のものにぶち当たったときにどうするのか。既存の知識で解きほぐせない存在とどう相対するのか。対象を目の前にしてどのようなスタンスやアクションを選択するのが良いのか。言うなれば不可解と向き合う態度とでも申しましょうか、そういったものを涵養するには、当人が成長途上で身を置いた環境そのものが関係します。このあたり、以下の記述とリンクするのかもしれませんが。

さてここで教育論に転換しますが、怖い話ですが、こうした抽象概念操作スキルというのは、得てして家庭内で口伝でミームとして伝達されるものではないのか。遺伝というと可笑しいけれども、ぶっちゃけ、「抽象概念操作スキルは抽象概念操作スキルがある環境内でしか開発されにくく、スキルがない環境では問題として理解さえされない」のではかな。けん氏のお父さんは結婚式のときにお目にかかったが、インテリの結構偉い(らしい)お医者さんであるが、多分その辺の影響でけん氏も結構生化学的なことは雑学として詳しい。それは一例だが、ある分野の知識のみならず、「汎用的な抽象概念処理スキル」もこうして家庭内の密接な父子・母子間コミュニケーションでしか容易に開発され得ないのではないだろうか。学力知識はともかく、学習力技能は文化だから、ましてお金では買えない。
http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20070107/1168142252

教え子を何とか刺激しようとさまざまな努力を試みておられることについては、非常にご立派だと思います。だからこそ、糸を切らさない程度に頑張って欲しいのですね。大学に多くを望まない意欲些少な学生が相手なんですから、「役に立つカルチャーセンター」でも良いではないですか。10人に1人くらい引っかかって、パラダイムシフトしてくれれば儲けもんですよ。






…ところで、

お願いだから福耳「先生」はやめて!書生ですから。

てなことを仰るから、頑張って先生という言葉を使わずに書いてみましたが、じゃあ何て呼ばれたいんですか?