見ている先が違うから

以下に3件引用します。

厚生労働省は2日、学習障害(LD)や注意欠陥・多動性障害(ADHD)など発達障害の疑いがある若者に対する本格的な就職支援に乗り出す方針を決めた。臨床心理士ら専門の「就職チューター」をハローワークの就職相談窓口に派遣し、障害を早期発見できるようにするとともに、障害者それぞれの特徴に応じた援助を進めて社会的な自立を促す。
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2007050200474

という記事に対して、

でもたぶん、そういった人たちって、困難なのは就職に関することだけじゃないよなあ(就職だけが問題だという人もいるのだろうか)。他の面での軽度発達障碍の若者に対する支援活動と連動することも必要?(その辺書いてないだけでしっかり考えられているのかもしれないけど)。本人にとってはニートやひきこもりから脱出できればそれでいいって話じゃないだろうし。人生は続く。
あとハローワークに出向く人は発達障碍の若者だけではないんだが、多くの利用者の中から、どうやって「支援すべき若者」を「発見」するんだろう(就職活動する年齢になってから「障碍」に気づくのは「早期発見」とは言わないんではというツッコミはとりあえずおいとくとしても)。就職相談窓口に座って、相談に来る人を観察して、それとなく「あなたには発達障碍がある」と伝えるのだろうか。
あとたぶん「発達障碍の中高年」というのもハローワークには来ると思うんだけど、そういう人もアドバイスを受けられるのだろうか。謎な記事だな。
http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20070504/p2

という批判がkmizusawaさんのブログでなされ、

それと、世の中で困難を抱えている人は山ほどいます。障害者の就業問題だけ取ってみても、視聴覚障害に身体障害に知的障害に性同一性障害に肝機能や腎機能の障害にと、様々でしょう。行政で対応する人員や労力や経費などコストのパイが有限である以上、発達障害だけに厚くするわけにもいかないのだから、「今できそうなことで今やるべきこと」を、どこにどれだけ割くかという問題は常にあります。
増税して高負担高福祉の大きな政府にせよという社会的合意ができるなら話は別ですが。そういう大きな議論は別として、今ある中で今やってみようということがある。その中で「障害者どうしのパイの奪い合い」にならないよう、どのように意思形成をするかも重要な問題なのですね。外野席から興味本位に、あれが足りないこれが足りないなどと、せっかく始まった対策の第一歩に欲張りなケチだけつけるような意見は、はなはだ無責任ではないでしょうか。
ハローワークでの水際作戦(発達障害の周知について) - Backlash to 1984

さらにその意見に対してkeya1984さんが批判を行った、という構図。ブロゴスフィアでは頻繁に見かける類のやりとりですが、進歩派と保守派の典型的な齟齬があらわれた様に感じました。というのは、要するにここで取り上げられたのは行政府が負の状況にある人間をどのように救い上げるかという話なんですが、そういう行為を目にした際に、「行政府が救おうとしても、なお零れ落ちる人間がいる」というところに意識がフォーカスするのが進歩派であり、「これまで救済の対象になっていなかった人間が救済の範囲に入った」という点をまず評価しようと考えるのが保守派の思考法である、という印象が強まったからです。
まあ追記で書いているように、kmizusawa女史は悪意があって行政府の行動を腐したわけではないのでしょう。ただ単に、政策の肯定的な面を評価するよりも先に疑問点や批判がお筆先のごとくサラサラと言葉になった。そういう行為が無意識かつ自然になされているというところに、進歩派的なものの見方の類型があらわれた様に思うのですね。障害者が絡んだ雇用政策について、プラス面とマイナス面とどちらに先に目が行くのか。ちなみにこういう書き方からわかるでしょうが、僕はkeyaさんのほうにシンパシーを感じています。
国も地方も、役所は有限のリソースの中から苦心惨憺して政策内容の向上を図っている。その政策が無謬ならざることは恐らく中の人自身がよく分かっているであろうに、そこに批判を加えるとしてもいささか建設的でないというか、愛のない批判じゃないでしょうか。重ねて言いますが、悪意を持って書いているわけではないと思っています。にもかかわらず、文章の調子に揶揄というか、直截に言えば厭味なものを感じました。これは進歩派あるいは左派的な人の文章について僕がしばしば思うことなのですが、今般話題になった左翼の退潮については、左派の口調語調における無意識に内面化された厭味ったらしさも、要因の一つに挙げられるのではないかと愚考する次第。