消費される「歴史」

終戦の日に言寄せて、ちょっと思うところを書いておきます。
8月15日は太平洋戦争が事実上終結した日であり、各種報道等でもこの日は、「戦争の悲惨さを歴史に学び、平和の大切さをあらためて心に刻む」というような言説が多く出回ります。まあ、平和の尊さ大切さを説くことについては何の文句もないのですが、そういうときに限って「歴史に学ぶ」という台詞を衒いもなく使われると、出来の悪いとはいえかつては歴史学徒であった身からすれば、多少の反発心を覚えないでもありません。
「戦争による苦痛と惨禍を繰り返さないために、歴史に学ぶことが必要だ」という意見をしばしば耳にします。しかし戦争を避けるだけであれば、政治・経済・軍事・外交その他の専門的知見を持ってくれば十分ですし、むしろそちらの方が実効的でしょう。わざわざ歴史を持ち出すこともありません。夏の風物詩的に歴史を持ち出して、国民の間に厭戦感情を起こさせるためだけに「歴史に学ぶ」と連呼されると、歴史学がまるで平和学か何かと同一視された気分になってしまって、残念なような腹が立つような、何ともやるせない気持ちになるのですね。
平和学 - Wikipedia
画家のゴーギャンの作品に、『我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか』というタイトルのものがありますが、歴史学の目指すところもそういうものです。我々の文化と文明の来し方行く末を知らんとして歴史学は成立したのであって、「戦争を繰り返さないため」というような、ある意味では実学的な射程に歴史学の意義を落とし込んでしまうと、おそらく「歴史に学ぶ」ことは困難になってしまうでしょう。歴史はそんなに都合良く使えるものではありません。
歴史学では、歴史に向かい合うスタンスを常におのれに問いかけることを叩き込まれました。立ち位置はしばしば揺れ動くものですし、歴史の見え方は主観的にならざるを得ないからです。扱う歴史の射程を短くするなら、なおさら立ち位置の流動性には自覚的であるべきです。そういう観点からすると、歴史を「非戦」のネタとして消費するような扱い方は、結局は歴史学的知見を尊重していないようにしか思われず、むなしくなってしまうのでした。