御殿場事件

御殿場事件については特に継続してウォッチしているわけではなかったが、裁判の途中で「犯行日が1週間前倒しされる」という驚くべき事態が起こったことは知っている。Jリーグのスローガンではないが、まさに"Amazing,Judge."である。その御殿場事件の控訴審判決が、ちょうど1週間前に下ったとのこと。

今週はウソに関する話。それは、8月22日に行われた強姦未遂罪に問われた元少年4人の控訴審判決。俗に“御殿場事件”なんて呼ばれている事件です。
01年に静岡県御殿場市で少女(当時15歳)を集団で強姦しようとしたとして、強姦未遂の罪に問われた元少年の被告人4人(当時16〜17歳)に対して、東京高裁の中川武隆裁判長が懲役2年の実刑とした1審静岡地裁沼津支部の判決を破棄。新たに懲役1年6月の実刑を言い渡したのは報道された通りで、皆さんもご存知でしょう。事件の内容を知らない人にしてみれば「控訴して懲役が半年短くなったのか」だけのニュースです。しかし、それだけでは済まされない判決なんです。まずは事件の内容と1審までの流れを簡潔にまとめてみました。
 ★01年9月17日 少女(以下被害者)が、前日に集団で乱暴されたと被害届を提出。
 ★01年11月 少年10人が逮捕され、全員が9月16日に被害者に乱暴したことを認める。しかし、少年審判で否認に転じた4人(今回の被告人)が検察官送致となり、起訴される。
 ★02年9月 静岡地裁沼津支部で行われた第3回公判。被害者は証人尋問で01年9月16日は他の男性と会っていたことを認め、ウソの被害日であることを証言。そして、被害は9月16日ではなく、1週間前の9月9日であったと訂正。
 ★02年10月 第4回公判。検察は犯行日を9月16日からの9月9日に訴因変更。裁判所はこれを認める。
 ★05年10月 被告人4人に懲役2年の判決。
手短かだけど、こんな流れです。ここまでは一切傍聴していないので、支援者が配ってたビラと報道内容をベースにしていますが。で、ここからが傍聴した話。06年12月13日。東京高裁での控訴審初公判。もちろん、弁護側は無実を証明するため、数々の証拠を提出しました。それが、
 ○犯行時の4人のアリバイ(焼き肉屋にいた、など)
 ○被害者が証言する犯人の容姿と、全く異なる被告人の01年当時の写真。
 ○「(9月9日に)雨の記憶はない」という被害者の証言の矛盾を証明するため、雨のため中止になった運動会の案内。
 ○「(現場だけ)局地的に雨が降らなかった可能性がある」という検察側の言い分を覆すため、“9月9日 雨”と書かれた現場近くのピザーラの売り上げ日報、警備会社の日報などなど。
(中略)
おれは犯行を目撃したわけでもなけば、裁判をすべて傍聴したわけでもない。だから、真実は分からない。弁護側が主張する被告人らのアリバイがすべてウソで01年9月9日に強姦未遂の行為があったのかもしれない。警察が間違って違う人を逮捕したのかもしれない。01年9月16日の被害届がウソだったように、9月9日の事件自体ウソなのかもしれない。
事件の真実は分からないけど、それ以外のことで分かることがある。
 (1)警察が被告人らに01年9月16日に被害者に乱暴したと認めさせたこと。
 (2)01年9月16日に事件があったと検察が起訴したこと。
 (3)でも、01年9月16日に強姦未遂の事件は起きてないこと。
この3つは真実だ。
個人的な偏見との批判は覚悟の上で断言させてもらえば、無罪相当の事案じゃないのかね。おれの見解が間違っているとしても、有罪と認定するには証拠が足りてないはずだ。検察側の主張に1つでも疑う余地がある場合、有罪判決を言い渡してはいけないという原則がある。「疑わしきは被告人の利益に」ってやつ。本件に関しては、しっくりこない点が1つじゃないんだよなぁ。
http://www.nikkansports.com/general/asozan/2007/asozan103.html

犯罪の事実を明らかにするのに、犯行がいつ行われたかを特定するのは当然必要なステップだろう。自分のような法の素人にも、この判決にいくばくかの矛盾が含まれていることはわかる。引用した記事にもあるが、仮に被告人が真犯人であったとしても、裁判で出てきた証拠からでは有罪と認定しきれないのではないだろうか?しかも、被害者の供述した犯行日が間違いであったことは、警察ではなく被告人の親の調査で分かったことと聞く。これだけでも警察および検察の捜査能力については疑問符がつくというものだ。
自分は、鹿児島の踏み字事件や富山の婦女暴行冤罪事件と同様、この御殿場事件も司法府の権威を失墜させる重大な事件であるという印象を持っている。なぜ司法府の権威が傷付くのか?この事件が冤罪と思えるから、ではない。冤罪の可能性を疑うに足る事案であるのに、司法がその矛盾を無視して判決を下しているように見えるからだ。「過ちて改めざる、是を過ちと謂う」との論語の一節をつい思い出してしまう。