選択させられるということ

結局、退職を余儀なくされることになり、転職活動を行っておりますが、これでも僕は「自己責任」なのでしょうか?
それとも産まれてきた時代が悪かった。それだけなのでしょうか?
教えて!ダンコーガイ
ロスジェネとか雇用とか(一当事者として) - syncのにっきver3.0

どこで「責任ある選択」をしなかったのか。6年前の部署替えの時か。彼女と別れたときか。職場に勤める前か。生まれる前か。どこかで間違えたのだろう。今も間違え続けているのだろう。だから今こんな不安定な状態なのだろう。ずっと間違え続けるのだろう。
敗残兵から一言 - reponの日記 ないわ〜 404 NotFound(暫定)

一月ほど前に、こんなことを書いた。

自分を取り巻いている状況が自分にとって厳しいものであった場合、ミクロ的にはその状況に自分自身を最適化させ、得られる効用が少しでも大きくなるように利益をかき集めることがベストである。一方で、マクロ的には自分を取り巻いている状況そのものを変化させ、積極的にアクションを起こさずとも効用が得られる、あるいは不利益を被らないような構造を作り出すことが望ましい。
もしくは両者の中間の選択肢として、周囲の状況を少しだけ変化させ、不利益の矛先を他人に押し付けて自分だけ逃れる、という手段もありうるか。ライフハックとしてはいささか悪辣にも思えるが、実社会じゃ爆弾の押し付け合いもまま見られることではある。
いずれにせよ、どのような境遇におかれたとしても、その境遇自体を自分のアクションによって変化させることは可能だが、状況の可変性に気づかなければプレイヤーが取る手段は状況への最適化しかなくなるし、他のプレイヤーを視野狭窄に追い込めば追い込むほど自分は小さな労力で大きな利益を手にすることができる。
また、構造の可変性そのものを認識していないプレイヤーが多いほど、構造の策定に関わるルールホルダーにとっては都合がよい。強大な権力を持った専制君主が任意にルールを作り出せる世界では、構造を変化させるようなアクションが革命ぐらいしかないので、大半のプレイヤーは状況最適化のアクションを選択させられる。
力への意志の前に - The best is yet to be.
(註:太字は引用時)

結局のところ、我々はつねに無数の限界や制約の中で生きている。生まれた場所、時代、境遇によって、取りうる選択肢は質も量も様々に変化する。もちろんプレイヤーは限られた選択肢の中から最善手を選ぶべきなのだけれども、すぐにはどうする事もできないような状況にプレイヤーを投げ込んでおいて、「眼と耳のどっちを賭ける?」と問いかけるのはあまりに業腹だろう。
さまざまな偶然、運と縁のはてに、我々はそれぞれの幸不幸を手にしている。自分を世界にアジャストさせることで僥倖を手に入れた人は、もちろんそれでよい。けれど、幸よりも不幸が大きかった人に対して選択した責任のみを問うのは妥当ではないだろう。パイが限られているのなら、パイを大きくしたり増やしたりするのが社会に課せられた責任というもの。時代の恩恵によって得た幸福に感謝しつつ、同じ時代を生きる人々の不幸を解消せんと知恵を絞ることが、公に生きる衆の務めだろう。社会的責務とはそういうことだと思う。