並立する正義

前のエントリにすなふきんさんとくまくまさんからTB頂いたので、お返事を兼ねて簡単に書いておきます。

ただ、「分配の正義」と「交換の正義」を社会の中でどのように「配分」するかについては均衡点のようなものはないのではないだろうか。そこで民主的決定システムが擬似市場システムのような役割を果たすとされるわけだが、左右どちらかの政党が政権を担ったとする場合はその時点においては明らかにどちらかの正義に偏った配分にならざるを得ないことから市場における均衡の概念とは性質を異にするようにも思われる。
http://d.hatena.ne.jp/sunafukin99/20080324/1206312481

おそらく仰るとおり。そもそも「分配の正義」も「交換の正義」もともに正義であることには違いなく、それは要するに論理体系としてはお互いに合理性を持つのであって、永久に決着はつかないことでしょう。それぞれのロジックを振りまわすのが生身の人間だから、拳を振り下ろさずに済むような落としどころとして均衡点に行き着いただけで、まあ現実には交換の正義からイニシアチブが移ることはないと思っています。社会党が与党だった村山富市政権ですら規制緩和を推進しましたし。

現行法の枠組みでは、行政とは、「交換の正義」の世界の住人たちの代表が議会で合意のもと、例外的に「分配の正義」を実施する機関として設置されるものだから。(我が国の法律では行政の他に「分配の正義」を実現する私的な組織として公教育を担う学校法人や保育や介護を担う社会福祉法人、医療を担う医療法人などもある。)
例えば、公有地内の借地営業であった新世界や浅草六区が事業者に払い下げされたのは行政体がその財力を基盤に「交換の正義」に介入する事はよくないという前提があり、それにもとづいて行政機関の財産から除外されたからだ。
また、公務員法では、政府の従業員である公務員に社会主義的、全体主義的に行動する「全体の奉仕者」(≒分配者?)である事を求め、宣誓させ、「交換の正義」から決別する事を要求している。
役所の仕事として最低限の条件は「交換の正義では実現出来ない事を行う」であり、まして個々の公務員が「交換の正義」にもとづいて仕事をする事は許されていない。
交換の正義を実現するのは行政の仕事じゃない気がする。 - くまくまことkumakuma1967の出来損ない日記

ここがいささか疑わしいところで、本来なら中央政府にしても地方自治体にしても公共セクションは分配の正義に則って職務に従事すべきところ、有権者である国民・地域住民は、公共セクションに対しても私企業同様に交換の正義を旨として振る舞うことを求めているように思えるのです。すなふきんさんが追記で書いておいでのように、政府と民間は違う原理で動いているものだし、またそうでなくてはいけない。行政の効率化の一環として民間企業のやり方を参考にすることはあっても、行動原理の根本は相容れないもののはずです。公務員の身分が保障されているのはその職務の公共性を守るためのはずですが、最近は自治体の長でさえ、有権者の不興を買うのに怯えてか、部下を守らない行動を示しますからね。
「民のことは民で」を徹底するためには、逆に公共セクションの行動原理については介入を最小限に控えるというような、相互不可侵の発想が求められるはずで、「リソースは有限」という旗印のもとにあらゆるところに民間の思考原理を導入するというのでは、たどり着く先は最小国家ということになるでしょう。まあ「それが世界の選択か」ということであればそれに従わざるを得ませんが、そんな世紀末救世主伝説みたいな世界では弱い者からどんどん落伍していくのは目に見えているわけで、心情としてはあまり心地よくありません。
それにしても、僕は自由市場経済を信奉しているつもりですが、どうしてこうも左派的なことばっかり書いているんでしょう。