ソーシャルスタビライザとしての「労働」

昨日の毎日新聞一面トップでは、秋葉原通り魔事件の加藤容疑者の雇用状態を取り上げていた。以下に引用するが、彼の心が荒んでいく様子がよく伝わってくる。

加藤容疑者は東京都内の人材派遣会社に登録し、自動車組み立て・生産大手の関東自動車工業東富士工場(静岡県裾野市)に派遣され働いていた。工場の職場関係者によると、今年5月中旬から大量解雇のうわさが広まっていたという。そのため、責任者が先月30日、派遣社員十数人を集めて「(当面は)休まず働いてほしいが、派遣社員の中には解雇される人も出る」と説明した。加藤容疑者ら2人はこの説明会に遅れて参加。責任者に「急に言われても何と言っていいか分からない」と返答に困った様子だった。同じ塗装工程で働く同僚にこの後「青森に帰って時給の安い仕事でもみつけようかな」と皮肉っぽく漏らしたという。
ただ、今月3日に一転して雇用継続が伝えられ、加藤容疑者は翌4日「辞めなくてもよくなった」とこの同僚に打ち明けたが、「良かったじゃないか」という同僚の言葉には無反応だったという。同僚は「どうして喜ばないのか不思議だった」と振り返る。
翌5日午前6時15分ごろ、加藤容疑者は工場更衣室で「つなぎ(作業着)がないぞ」と突然大声を出し、壁を殴るなどして暴れ、職場から飛び出した。この1時間半前に携帯電話サイトの掲示板に「おれが必要なんじゃなくて、とりあえずクビ延期」と不満をぶつけていた。6日には福井市ダガーナイフなどナイフ6本を購入し事件の準備を始めた。
秋葉原殺傷:9日前に「解雇」通告 「不要」扱い怒り? - 毎日jp(毎日新聞)

雇用の不安定さが人心を荒廃させ、社会を蝕んでいくというのは、理路としてはシンプルだ。キャリアパスの先が見えない状態、仕事がいつ打ち切られるかわからず将来の計画が立てられない状況では、生活面の安心を得ることが非常に難しくなる。進んでいる道の幅がだんだん広くなったり狭くなったりしたら我々は速度を上げ下げして安定を保とうとするが、霧中の夜道ではそろそろとしか進めない。一歩踏み出した先が地盤の緩んだ崖という可能性だってあるのだから。

犯行前に、ツナギがロッカーから消えていたことで、解雇されると思い込み激怒したとの報道があった。字面だけ追えばそんな小さなことで解雇なんて、と思う。
だが、彼の状況を鑑みるに、まともにコミュニケーションが成立していないので、ちょっとしたことにも過敏になってしまうだろう。
しかも、派遣会社の言ってることと現場の言われていることに食い違いがあり、クビにはならないと派遣会社が言ったところで、会社側が希望する日まで働いてもらうための方便に見えてしまうだろう。
クビにすると言ってしまえば、本人がバックレたり、やる気がなくなったりして生産性が落ちてしまう。
そもそも、数ヶ月で人が入れ替わってしまうので、職に対するこだわりや企業に対する忠誠心が薄くなる。
(中略)
モチベーションの上がらない労働をさせられる時間が増えるだけであり、それはそれで苦痛である。
そういう状況下でツナギが無くなったとしたら、極めて非人間的な方法で、陰湿に解雇を告げてきたと勘違いしてもむべなるかな、だとは思う。
【秋葉原無差別殺傷】人間までカンバン方式 - 何かごにょごにょ言ってます

もちろん、非正規雇用だから彼が犯罪に至ったと言うことはできない。同じように不安定な就労を続ける人間はごまんといて、それらのいずれも無差別殺人事件など起こしてはいない。彼が殺人性向を持った特別なモンスターという可能性はある。
けれども、自分は社会の中に反社会的性向を持った人間は一定数いると思っており、反社会的人間であっても現実に社会を害するような行為を犯さなければそれでいいとも思っているので、彼の反社会性の度合いなどは瑣末な問題と考える。重要なのは反社会的性向を持つ人間であっても実際の行為に至る一線を超えさせないこと、反社会性を暴発させないように人心を安定させることであって、反社会的性向を矯正することではない。どんなクソッタレな思考や感性の持ち主であっても、他人に害をなさない限りはともに生きていこうというのが現在我々が合意している社会のありかたであって、社会の構成員が他人に害をなす可能性を少しでも小さくしようとするのは制度設計を語る大前提である。雇用の不安定さがその人の心を荒ませる一因になるという理屈に肯けるならば、雇用の不安定さを解消することで反社会的行為の暴発を少しでも抑制しうるという理屈も是としうるだろう。重ねて言っておくが、彼が派遣社員でなければ犯罪に至らなかっただろうという主張ではない。今回のような事件の発生可能性を抑えるため、複雑に絡み合っているだろう要因の、せめて一つでも取り除けないかと考えているに過ぎない。
前置きが長くなった。雇用の安定→生活の安定→人心の安定と自分は考えているが、ここではすぐに一つの反論を挙げることができる。すなわち、ベーシック・インカムなり生活保護なりのセーフティネットを充実することで生活の安定を実現すれば、雇用の問題と関係なく人心の荒廃を防げるのではないか、という反論である。しかし、セーフティネットの充実そのものには自分も賛成だが、それによって雇用の問題を度外視できるとまでは考えていない。というのは、福祉制度では「承認」を給付できないからである。
はたらくとははたをらくにすること、という古い言い回しがあるが、肉体労働にせよ頭脳労働にせよ、社会的動物たる人間は少なからず他人に貢献し承認を得たいという欲望がある。はたをらくにすること、すなわち労務の提供によって、労働者は賃金とともに承認を獲得し、充足を得る。働く日常で得られる心の平安はささやかなものだが、世の中は案外、そんなささやかな充足で慰められる人間が多いのではないか。
経済活動は優秀な人間だけでやった方が効率的だ。時間や手間、様々なコストを小さくすればするほど利益は大きい。しかし、優秀な人間に多く稼いでもらってその余剰でもって優秀でない人間を支える、というありかたを自分は支持しない。世の中の大半を占める平凡な人間が、平凡に働き、生活の糧とささやかな喜びを得る。そのささやかな充足が社会を壊乱させるリスクを軽減してきたと自分は考えている。
福祉による給付は、個人が社会と接続する機会を減少させる。社会との接続はもちろんさまざまなストレスを生むが、一方で社会と断絶することによるデメリットも考えておくべきだろう。1993年にECの社会政策グリーンペーパーにおいて「社会的排除」の問題が提起されたが、いわゆる格差社会においてはそれら排除された人々をどのように社会に包含していくかが論点となっている。はてな界隈では、2007年末のNHKスペシャルワーキングプア3」を思い出す向きも多いだろうか。(参考:NHKスペシャル「ワーキングプアIII 解決への道」の感想
当ダイアリでは労働問題を重ねて取り上げてきたが、ここであらためて表明しておく。自分は、労働を通じて社会の安定を達成すべきと考えている。福祉による救済は限定的なもので、就労へのディスインセンティブとして機能してしまうため、サステナブルな社会を構築する際には、むしろ阻害要因となってしまう。それよりも、日々の生活の基盤となる労働という行為を社会政策の中心に据え、もって人間の尊厳と社会的紐帯を回復し、各人がより能動的に社会に参画する機運を育むこと。現代においては、そのような政策的枠組みが求められているのではないだろうか。