たかが愛

愛を強いるな。愛は狂気を孕む。愛は情熱だ。愛はすばらしい。だが愛を押し付けるな。
愛は危険だ。愛は人を変える。愛は人の心を変える。愛ゆえに人は苦しみ、愛ゆえに人は悲しむ。
こんなに苦しいのなら、悲しいのなら、愛などいらぬ。
ええと、何の話だっけ?
戯言はともかくとして、例の東京地裁判決に伴って起こった議論について、愛国心をもって起立や斉唱を強制しようとするのは、僕には違和感があります。あれはあくまで、式典中の慣わしに服さなかったことをどう見るかということに過ぎない。例えば、キリスト教イスラム教の精神をもとに建学された学校であれば、入学式や卒業式で宗教的な楽曲を流すことはありうると思います。その楽曲はそこの式典において意味を持つと思われますが、その学校に勤める教職員が「私はジャイナ教徒だからその歌は歌えない。」「それを言うなら私もゾロアスター教徒だから。」「いえいえ私なんかシク教徒。」「私だってラスタファリズムが。」「いいえ私はさそり座の女。」とか言い出したら、収拾つかないでしょう。まして、その楽曲が日常的に流されるわけでもないのに。
スタッフが愛国心を持っていなくたって、それは別に構わないでしょう。愛は心のうちから自然に生まれるもの。無理強いするわけにはいきません。しかし、式典を粛々と行うことはその組織において重要な意味を持つでしょうし、それに協力することは業務の一環です。教育機関だろうが一般企業だろうが同じこと。個々人がさまざまな思想・信条を持っていることは当然ですが、それらの思想は卒業式においてしか表現できないものではないでしょう。彼らにはその組織を辞職する自由があり、また組織にとどまったままでも、思想・信条を表現する機会を別に持つことができます。自分の内面と一致しない命令を常に拒否できるかといえば、それはさすがに無理があるでしょう。だから愛国心の話ではないと思うのですよ。愛国心をもたない人間でも国は許容する。他方、職務命令に従わなかったら組織は処分を下す。当たり前の理屈です。処分の程度には議論の余地がありますけど、職務命令の正当性については、「ううん、そんなに不当かなあ」という気分ですね。昨日とあまり変わらない結論になっちゃったな。所詮は酔っ払いのエントリ。読み流してくださいな。

何故に たかが愛に迷い 
そして たかが愛に 立ちどまらされても
捨ててしまえないものがまだあるの
僕は たかが愛に迷い 
そして たかが愛に 立ちどまらされても
捨ててしまえない
たかが愛
中島みゆき/たかが愛