式典に関する地裁判決

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20060921it09.htm

僕がアビスパについてあれこれと思いをめぐらせている間に、東京地裁で議論を呼びそうな判決が出たそうですね。今更ながら、僕も少し思うところをつらつらと。
僕自身は日の丸・君が代を国旗・国歌として尊重することに不満の無い人間なので、これらについて心理的な差し障りをおぼえる方々については、特に共感するところはありません。国旗国歌に対して随分とセンシティブというか、えらく思い入れがあるのだなあ、とは思いますけど。他人事ですが、生き辛くないのかしら?
仮に、日本の政治体制が変革されたりあるいは国民の意識が変わったりして、日の丸・君が代の代わりに別のものが国旗国歌に定められたとしたら。たぶん僕はそれらを建前だけでも尊重するだろうし、教員であれば通達に従うんじゃないかなと思います。青天白日旗だろうが五星紅旗だろうが決まった国旗なら掲げればよいだろうし、国歌に選ばれたならば『わぴこ元気予報』だろうが『命の別名』だろうが張り切って歌うでしょう。僕個人が気に入らなくとも、式典という場で国旗国歌に礼節を持つことは当然のことと認識しているので、内面において気に食わないという感情を保ちつつ、通達に服するでしょう。
この点、「思想の自由は認められても、それを実際の行動としてアウトプットするのは制限される状況もありうる」と僕は考えるので、憲法違反といわれるとちょっと考え込んでしまいますね。国旗掲揚・国歌斉唱の際に起立することは式典の慣行であり、また国民全体ではなく公務員が業務として起立を求められるに過ぎないのであって、それがそんなに不当なことなのだろうかと。自分の思想信条とは異なる規範であっても、それに従うべき場面が人生に存在するのは当然ではないでしょうか。とはいえ、法律を背景に通達を出し従わない人間を懲罰にかけるような教育委員会のやり方は僕も疑問に思いますし、いかにも反発を招きそうで、管理手法としては拙劣だったんじゃないのとは感じます。行政当局にしてみれば、法律をもとに通達を出すのが何で悪いのかと言いたいところでしょうけれど、そこはうまい落としどころを探るべきでしたね。式典を欠席することを認める、とか。
それから、判決において裁判長が、日の丸・君が代に対して「明治時代から終戦まで、皇国思想や軍国主義思想の精神的支柱として用いられ、国旗、国歌と規定された現在でも、国民の間で中立的な価値が認められたとは言えない」と述べているんですけど、この考え方はどうも腑に落ちません。そもそも、戦争を行うとなれば軍事にかかわる事柄が国政に対して大きく影響するのは当たり前の話で、その際に国旗・国歌をはじめとするさまざまな事物が国民をまとめる象徴に使われるのもまた当然の話。この理屈だと、戦争をするたびに国旗や国歌を変えなければいけなくなるのでは?戦争に用いられたことに限らず、さまざまな過去、さまざまな経緯を我々は歴史として持っているのであり、国旗国歌を通してその歴史に思いを馳せることは、ごくありふれた、真っ当かつ文化的な営みだと思うのですが。
たとえばオーストリアの国旗なんか、デザインとしては上下の赤で真ん中の白をサンドしているんですけど、これはオーストリア大公が十字軍に参加した際に、敵の返り血を浴びて体は真っ赤に染まったけれど腰のベルトだけは白かったという故事にちなんでいるんですよね。しかも第1次大戦中は国旗ではなく戦闘旗として使われたりしていて、日の丸よりもよほど血塗られているように思われます。だけど、オーストリア国民は国旗を変更しなかった。思うに、それでよいのです。国旗はそういう過去を持っていてもかまわない。どのような国も多くは戦争を経験しているけれど、一方でその国の歴史は戦争によってのみ語られるわけではないし、また国は歴史的要素によってのみ構成されているわけでもない。国旗や国歌はその国全体のイメージを背負っているものですから、中立であるとか偏っているという価値観でくくられるものではないように思います。