「自殺したらテレビや新聞が来るかな。」

学校側によると、男子生徒は13日の休み時間、学校図書館の司書に「自殺したらテレビや新聞が来るかな。大騒ぎになるかな」などと話し掛けてきたという。司書が「そりゃ、大騒ぎになるよ。人の命がかかっているけん。まさか、変なこと考えてなかろうね」と問い掛けると「ありえんし。度胸ないし」と笑って答えたという。
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/20061117/20061117_027.shtml

自殺した生徒は15日から行方が分からなくなり、学校やPTA、住民らが捜索していた。17日朝、自宅裏山で首をつっているところを発見した消防団員は「つらくて、遺体に近寄れなかった」と沈痛な表情。捜索に参加した住民の1人も「前の日、現場近くまで行っていたのに。早く見つけてあげれば…」と唇をかんだ。
男子生徒の自宅がある団地の住民によると、生徒は普段から1人でいることが多かったという。近所の主婦は「釣りざおを持って自転車でたびたび出掛けていたが、いつも1人だった」と証言。一方、無職男性は「犬の世話をよくしていた優しい子。あいさつすると、いつもほほ笑んでくれた」と話していた。
今のところ遺書は見つかっておらず、町教委の会見でもいじめの事実は報告されなかった。親族の1人は「週に1度は遊びに来ていたが、自殺するそぶりはなかった。なぜこういうことをしたのか分からない」と首をかしげる。ただ、数日前には学校図書館の司書に「自殺すると大騒ぎになるかな」などと話しており、PTA役員の1人は「全国で相次いでいる自殺の連鎖反応ではないか」と憤った。
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/local/fukuoka/chikuho/20061118/20061118_001.shtml

自殺願望、あるいは希死念慮に駆られた子供だったのだろうか。今日になってもいじめの話も出てきていないし、藤村操のごとく世を儚んだのかもしれないが、それにしてもやりきれない。「生きていれば楽しいことがいっぱいあるんだよ。もったいないよ。」と言ってやりたいのだけれど、彼の耳には虚しい言葉なのかも知れず。何も死ぬことはなかったろうになどと思うのは、しょせん他人の軽口に過ぎないのか。
突発的に死にたくなる衝動を覚えるのは、かつての自分を省みてもこの年頃ならば有り得ることで、運良く自殺せずに死んだ人間なんて無数にいるだろう。死にたいときに死ぬのはある意味で幸福な結末だけれども、人生の帰趨も定かでない若年で自身に始末をつけてしまって、それがいったい何になると言うのだろう。君の生は、そんな手前勝手なものなのか。
思うに、僕の精神や肉体は僕のものと言ってよいだろうけれど、一方で命とか生とかいったものは僕が自侭にしてよいものとは思っておらず。むしろ、今この同じ時代を生きる多くの人々も幾許かは所有しているというか、あるいは僕に縁を持った人々はそれぞれに僕の生とつながっており、僕もまた多くの人の生につながっているというイメージを僕は抱いていて。僕を愛したあの人も、僕を害したあいつらも、この文章を読んでいるあなただって、みんなみんな同時代を生きる衆生なのだ。自殺した彼だってもしかしたらどこかで僕と縁を持つ可能性は十分にあったのであり、眼前に迫った確たる絶望というものもなく、不明と曖昧の中でその生を終えた彼に対し、悲しみとも怒りともつかぬ複雑な感情をおぼえてしまう。このニュースを見なかったら知らなかったはずなのに。
彼の自殺がウェルテル効果によるものかどうかは定かではない。もしかしたら死を選ばざるをえないような苦境にあったのかもしれない。生きろと言える立場ではないが、それでも僕は、生きて欲しかったと思う。絶望を根こそぎ吹き払うような朝が、これから何度だってやってくるんだから。