「行かせる側」のパフォーマンス

ときわ台駅の事故で宮本邦彦巡査部長が亡くなった件で、安倍首相が板橋署に弔問したことについて少し書いておく。故人の名を間違えたことは、面識の無い相手であったことを差し引いてもまあ失当だと思うが、弔問したことや「誇りに思う」と発言したことを揶揄するのは、ちょっといかがなものだろうか。
警察に限らず消防や海保などもそうだが、世の中には危険に立ち向かうことを含みこんだ仕事というものがある。普通の仕事だって危険が伴うことはありうるが、中でも前述のような職種は、危険であることがわかっていても危険に立ち向かわなくてはならない仕事である。宮本巡査部長はそういう危険な仕事に「行かされる側」であり、首相などのお偉方は「行かせる側」であった。行かされた人間が不幸にも命を落とす結果になったとして、行かせた者はその死に対してどうやって報いたらいいのだろうか?
自分の身に引き付けて考えると、慶事や弔事に当たって偉い政治家から電報が来たって嬉しいことなんか無いし、勲章が欲しいとも思わない。親しい友人・親戚・家族が祝ったり悼んでくれれば、それでいいと思う。しかし今回の場合、宮本巡査部長はわれわれ国民大衆を守る「警察官」としての職務を執行していて亡くなったのであり、国民大衆の代理として「内閣総理大臣」が弔意を表すのは、至極当然のことではないだろうか。そしてそのとき総理が選ぶ言葉は、「人間として」とか「警察官として」ではそぐわない。それでは国民大衆が共有できないからだ。その弔問がポーズであることは明らかだけれども、日本人全体の弔意を束ねて故人にささげるのだから、「日本人として誇りに思う」としか言いようが無いのではないか。
お偉方が弔問したり葬儀に出席するという行為は、もちろん偽善的なパフォーマンスではある。しかし行かされる側にしてみれば、せめてそのようなパフォーマンスの形でも報いがあって欲しいだろうし、遺族にとっても慰めの一端となるかもしれないだろう。死んで欲しくなかったことは当然としても、「不幸にも亡くなってしまいましたが仕方ありません。そういう仕事ですから。」などと言われては、あまりにもむごいではないか。不幸にも命を落とす結果が起きてしまった以上は、故人は立派な仕事をして亡くなったのだと、せめてそういう言葉をかけてもらいたいと思う。遺された家族、あるいは同じ職務についている日本中の同僚にその死の意味を納得させ、報いるために、「行かせる側」にはそのような感情移入のパフォーマンスが必要なのではないだろうか。
1992年のカンボジアで、PKOで派遣された日本の警察官がポル・ポト派の襲撃で殉職した事件があったが、時の宮沢総理は葬儀に出席しなかったという。また、職務中に殉職した警察官の死を悼む「全国殉職警察職員慰霊祭」という行事があるのだが、その慰霊祭に出席した首相は戦後半世紀の間で小泉首相が初めてだったそうだ。故人や遺族に報いるためにそういうパフォーマンスが無意味なものであるとは、自分には思えない。たとえ幻想と言われようとも。
なお今回の事件に関しては、駅員や乗客が緊急停止の措置を取れなかったのかとか再発防止策について論じることは当然に必要だろうし、仮に自殺志願の女性だけが亡くなって宮本巡査部長が生き残ったとしても、それは責められるべきではないだろう。救うべき人間を救えなかった痛みは、いつまでも残るものだから。