労働者としての障害者

労基署がきちんと仕事をしていることは本来喜ばしいことなんでしょうが、うーん、これはまたいらんとこ突っついたなあ。

神戸市内の知的障害者の作業所が、最低賃金法に違反しているなどとして、神戸東労働基準監督署は近く改善指導を行う方針を固めた。
作業所は一定の条件を満たせば労働関係法規の適用が除外されるが、同署は、作業実態が訓練の範囲を超えた「労働」にあたると判断した。作業所への改善指導は異例。同様の事例はほかにもあるとみられ、厚生労働省は近く、労働者としての保護を徹底するよう、関係施設に通達を出す。
指導を受けるのは、社会福祉法人「神戸育成会」(小林八郎理事長)と、運営する3作業所。知的障害者計16人が、指導員から指導や援助を受けながら、クリーニングなどを行い、工賃などとして1人あたり年間約25万円を得ている。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20070219i101.htm

こういった小規模作業所授産施設の実態に詳しいわけではないが、一般的にそれら施設に通う知的あるいは精神的障害者の生産性は、健常者よりも低いだろう。健常者並みの生産性を持つならば一般企業で普通に就労できるはず。それが困難だからこそ、作業所などの施設には援助が出ているわけだし。

作業所や授産施設は〈1〉作業収入は必要経費を除き、障害者に全額工賃として支払う〈2〉能力により工賃に差を設けない〈3〉出欠や作業時間、作業量などは自由で、指導監督をしない――などを条件に、労働基準法の適用を除外される。障害者は労働者とみなされず、労働法規の対象とならない。
同署は昨年11月、同育成会へ立ち入り調査し、収支報告書などを分析。この結果、同育成会は、作業収入を障害者に全額還元せず、遅刻すると工賃を減額するなど適用除外の条件を逸脱していることがわかった。
また、同育成会の昨年度の会計報告によると、作業収入は計約1600万円で、このほかに神戸市から年間約1400万円の補助金を受けているのに、障害者の工賃や福利厚生に使われた費用は計約400万円で、残りは指導員の人件費などに充当されていた。最低賃金は、兵庫県では時給683円だが、関係者によると、同育成会の作業所では百数十円程度だったと見られている。

3施設で16人ということは1ヶ所当たり4〜6人の通所者がいるものと思われるが、1400万の補助金では雇えるスタッフはせいぜい4、5人だろう。それで問題なく運営できるかどうか、ちょっと疑問である。また、工賃に差をつけなかったり勤務時間の管理をしないことが常に適当とは思えない。こういった施設の役割は、通所者が報酬を得ることで労働に対するやりがいや社会的なつながりを充足させるという意味合いもあろう。そうした観点からすれば、賃金の差も勤務時間の管理も決して廃すべきではないように思えるが。障害者か労働者かという二分法ではなく、障害者であるが労働者に準じた扱いをするという感じで、緩やかに分けた方が通所者にとっては有益なのではないだろうか。
こういった状況は他の施設でも類似したものと思うが、摘発を厳密にやりだすと、大半の施設は運営が行き詰まるように思う。収益が大幅に上がらないかぎりは補助金に頼るしかないのだから、自治体による支援の拡大は検討すべきだろう。最後の「保護者の理解を得て10年以上前から行っており、違法と言われては、作業所の運営は極めて難しい」という理事の言葉は説得力を感じる。
さて、作業施設の側で経営上の工夫はできないものだろうか?一括りに言えるものではないが、貿易におけるフェアトレードの議論がちょっと参考になるかもしれない。福耳先生がしばしば俎上に上げる、いわゆる正義商品ですな。*1

ホワイトバンドが象徴的ですが、別にフェアトレードと銘打ったコーヒーを買うときに先進国の消費者は「本当にコーヒーが目当て」なわけではない。途上国の農民の生活を支援するつもりでプレミア価格分、寄付というか支援というか、まあ贈与をしているつもりであるように普通は考えられるが、僕はこれは「正義達成の充足感」という商品を購入しているのであり、価格のプレミアはこのいわば「感情商品」の正当な対価だと思う。購入者が自発的に納得してフェアトレードでコーヒー豆を買っているなら、彼はそれなりの効用をその財から得ているはずだ、と僕は考えますし、この場合はそれは先進国の消費者が「自分は情け深い、同情心ある、徳義に厚い、途上国の貧困に対して手を差し伸べる親切な博愛精神あふれる人間だ」と思いたい欲求がある、その欲求を満たさせてあげるサービス財だと考えた方が、ブランドや快楽消費のマーケティング的研究の俎板に載せやすいし、そのほうが結果として途上国の貧困克服にも近道だと思います。どうするかというと、「いかに効率的に途上国の農民が先進国の消費者の正義感・優越感を充足させる感情商品の価値を向上させ、それを生産するいわば「感情労働」の効率を改善するか」という話にするほうが、ずっと素直で実用的じゃあないかなあ。
http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20070105/1167985421

引用したのは途上国との貿易の話だけど、障害者に置き換えると、つまり障害者がその商売に関わっていることをセールスポイントにするということだ。一般の同業他社とでは品質や価格の面で競争したらかなわないだろうけど、その商品を購入することで障害者に対する支援になるということであれば、これは多少の価格差も寄付という気分で乗り越えられやしないだろうか。100円募金することと、100円で買える商品を200円で買うこととを比較したら、勝負になりうるんじゃないかなあ。多くの消費者は、障害者謹製(Made in Handicapped Person)な商品を購入することで感情を満足させ、生産した障害者は、対価ととともにこれまた感情の充足を得るということで、商品によっては可能性あると思う。
そしてそのように障害者を経済循環の中に組み込むことで、僕らは障害者を隔離することなく、逆に社会システムの一部として障害者を捉えることができる。「僕ら」から「彼ら」を排除したり隔離するといった議論よりは、うまいこと付き合っていく方途を探るほうが有益ではないですかね。
(参考リンク)

*1:サラッと「いわゆる」って言ったけど、福耳先生以外に使ってる人いないかもw

*2:BUNTENさんはここ数日エントリをアップしているけど、状況は安定したのだろうか。