ゆとり教育よりゆとり労働

モトケン先生のブログで、医師の労働環境に関するエントリが立てられている。やはり国循ICUの医師一斉退職は衝撃だったのだろう。国循といえば西日本唯一のナショナルセンターであり、ICUはそこの中枢の一つである。ICUの欠員を埋めるために別の科から医師を配置転換するとなれば、ICUに人材を出した科にはさらにまたどこかから医師を持ってくるという風に、院内ドミノ的な状況も予想される。畢竟、どこかで負担は強まるわけだ。
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我々があまねく医療サービスを享受できている現状は医師の献身的な労働に支えられていることを、改めて実感する。以前に当ダイアリでも保育士や教師の労働環境に多少触れたことがあったかと思うが、それらのいずれの職業にしても、一般的な民間企業と同等以上の労働量を構成員に負わせることで、消費者の要求に合わせたサービスを提供できている面があるだろう。しかしながら、これはごく基本的なことだが、サービスの内容を改善したり新設したりする場合は、予算や人員を増やすことを最初から否定してはいけないはずだ。人員は従来のまま、割ける予算も今までどおりというのでは、構成員の労働量を増やすことで新規の案件に対応することになってしまう。それが積み重なったがゆえにパンクしかかっている現場が多く出てきたのが、現在の状況ではないか。
個々の従業員が健康を害さない程度に働いた場合にかかるコストというものがあり、それらをマークアップすることで経費の総額が定まる。想定される経費と予算上限を突き合わせてようやく、提供できるサービスの質量、例えば病院や保育所の設置数、規模、あるいはそれら施設に配置するスタッフの数や設備が、具体的に立案できるようになるのだ。この自治体には待機児童が○○人いるからⅩ年度までに受け入れるようにしろとか、××地域の住民のニーズに応えられるよう△△病院ではサービスの時間や範囲を拡大しろと言われても、予算据え置きで従業員の使命感に甘えて業務増ではどこかで破綻するに決まっている。
これこれのサービスが欲しいが必要な経費はいくらかということを議論するのに、スタッフを酷使することを前提とするのはどう考えたっておかしい。健康的に働ける労働量の上限というのは確かにあるのであって、それを超えて無原則に働かせていては、真っ当なコスト意識なんか育つはずもない。財布と相談することを覚えないまま、要求だけはいっちょまえの子供と言われてもしょうがないだろう。

24時間営業という非人間的な、しかし社会にありふれた光景は、人々から我慢することを、そして健康を奪いました。引きこもりと呼ばれる人間からは、社会との接点を奪ったように思います。昼夜のわからない生活をしながら、機械的に24時間あらゆる物が売られるコンビニで、いつでも何でも手に入れることができるようになったことで、社会は社会の中に孤島をつくり、孤児を押し込んでいます。

コンビニが当たり前になったことで、当然別の分野も昼夜問わず動き出します。大型店舗も深夜営業、24時間営業を行い、あらゆるサービス業がそれを追いかけていきます。僕らはそうして、24時間あらゆるサービスを受けられるような錯覚に陥らされたのと引き換えに、非人間的な時間にも働かなくてはならなくなったのです。

24時間という非人間的な時間に慣れた僕らは、その非人間的な日常に鈍感になってしまいました。そうして、異常が日常になってしまう。僕らは24時間、我慢せずにいつでも何でも手に入れられるというような少しの利便性のために、夜を夜として過ごすことを奪われてしまいました。正常な思考と正常な生活を奪われた奴隷になってしまったのです。
ザウエリズム 【Zawerhythm】 - 24時間営業

上の指摘に強く同意する。公共サービスを担う人材もまた労働者として保護されなければならないのであり、それらを勘案した結果としてサービスの縮小やコスト増が不可避ならば、社会の側も歩む道を選びなおす必要があるのだと思う。