「無知は罪」というイデオロギー

つらつら考えているうちに話題としては終息してしまったようだが、雑駁に書いておく。「募金箱素通り人殺し」騒動を見ていて、因果関係の「因」の部分に「不作為」を持ってくるのに議論としてはいささか大雑把ではという印象を受けたのだが、そのあたりは論者は気にならないのだろうか?たとえば、募金をしないことで間接的とはいえ人殺し扱いされるなら、募金箱が置かれるコンビニを素通りする人はどう扱われますか?バイトが募金箱からお金を取ったら大量殺人者ですか?募金箱のセキュリティをきちんとしなかったコンビニ経営者はどうですか?募金を集めている慈善団体の経営を合理化した経営者は、何百人かを救ったのと同じになるのですか?海は死にますか?山は死にますか?
等々、自分でもコドモじみた話をしているとは思うが、疑問がいくつも出てくるわけで。そういった論点をことごとくすっ飛ばして議論を組み立てようとしても、理屈としてアヤシイんじゃないかという印象を禁じ得ないし、詐術と呼ばれたってしょうがないだろう。もちろん、議論の組み立て方が粗雑であることを根拠に、「理屈としてアヤシイ、だから詐術」という批判を行うのはそれはそれで反感を持つ向きもあろうが、「見殺し」と「人殺し」の間の隔たりを飛び越えて論を組み立てようとするなら、論理の雑な部分をもって詐術呼ばわりされたとしても、それもまた受け入れなければならないでしょうよ。
思うにこの話題って、事情を知っている者は事情を知らない者に比べて責任が重くなる、というだけの話と自分は理解している。どこの世界だって、どんな分野だって、事情を知っている者こそが問題解決のために行動できるのであって、事情を知らない者は行動しようがない。でもそれだと、物事をよく知っている者とか、知識が豊富だったり深く考える人にばかり負担が多くなってしまう。それを回避するために、僕らは「無知は罪」というイデオロギーに乗っかって、他者に世界の窮状を訴えるんじゃないだろうか?こんなにも恵まれない人がいる、困窮している人がいる、あなたはそれを見捨てるのですか、と。
言っておくが「無知は罪」なんてのはウソだと僕は思っている。前段で述べたように、世界にあまた存在する不幸を解消できるのは、その不幸の存在を知った者だけだ。知らない人間は何にもできない。たまたま問題解決に寄与することはあっても。だけど、不幸を知る者だけが不幸を解消しうると考えてしまったら、知った者は相当にしんどいし、心が折れてしまうかもしれない。それを回避するために「無知は罪」というイデオロギーを使って心を軽くするんだと思う。そういう風に考えられれば、先行者は後発者に対して優越感を持てるからね。「そこに憎むべき不平等があることを、私は知っていました。あなたは知らなかったのですか?この不公正を見過ごしていたのですか?ならば、あなたも同罪です。」みたいな。実際にいたら凄くイヤなキャラだね(笑)。だけどその方がラクだと思いますよ。責任感の強い人間は、貧困や不正義を目の当たりにすると苦衷に陥りがちだもの。そこで心理的負担を軽くするマインドハックがあるならば、そこに流れるのも自然なことでしょう。
自分自身を振りかえってみても、より深い思索、あるいは知識を獲得する行動原理として「無知は罪」という思い込みを用いた経験は幾度もあった。それが僕自身の内面心理にとどまる限りは、言い換えれば当人の行動を促すのに働くだけの理屈であれば、いくらでも使えばよろしい。けれど、その理屈はただおのれ自身にのみ適用されるものであって、具体的に他者を批判するためにその理屈を使おうとは、僕は思わない。「問題解決の責任は、まず事情を知る者にある」からだ。それを、「全ての人は間接的に○○に責任がある」なんてバタフライ効果みたいなこと言われたって、それはさすがに万人に通じる理屈にゃならんでしょう。「責任」の範囲は、どのような社会、どのような価値体系を目指すかで変わってくるんだから。
世間に共有されていない不正義に目を向ける人間は、言わば負のアーリーアダプターなのであろう。そういう人間が社会に要請されているのは、後発者を審問していたずらに反発を招くことではなくて、不正義を解消すべく世に問うことであると僕は思う。人間が社会的動物である限り、流れの緩急はあれど、いずれは社会的不正義を憎むに至ると、僕は信じているので。