弁護士の職責

 無期懲役判決だった1、2審では、弁護側は起訴事実を争わなかった。しかし、最高裁で弁論が開かれ判決見直しの可能性が高くなると、弁護側は「殺意はなかった」と主張を変更。最高裁は昨年6月、「量刑は不当」などとして2審判決を破棄、審理を同高裁に差し戻しており、死刑の可能性は高い。少年法は、18歳未満の被告に死刑を科すことを禁じており、事件当時18歳と30日だった元少年に対する死刑適用の是非が注目される。
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/jiken/news/20070525ddm041040093000c.html

光市母子殺害事件 - Wikipedia
1・2審では無期懲役を勝ち取ったものの、最高裁が差し戻したことで死刑の可能性が高まっため、弁護側は弁護方針を変更せざるを得なくなった、ということだろう。従来の基準に従うなら、被告人の18歳という年齢や反省の態度等をアピールすることで死刑を回避できていた。けれども高裁差し戻しとなり、正攻法では差し戻し控訴審において死刑判決が下ることはほぼ確実。それゆえ、殺意を否認して、殺人ではなく傷害致死という方向で争うことにしたものと推量する。現実には死刑回避は非常に困難だろうが、わずかな可能性としてプロが選んだのがそういう路線であるのなら、その結論は尊重したい。
弁護側が死刑廃止論者で固まっていることもあって弁護団に対する批判がかまびすしいが、そもそも弁護士は、国民すべてを敵に回しても被告人の利益を守るために全力を尽くすことを職業倫理として要請されているのであり、その点については自分は批判しようとは思わない。どれほど荒唐無稽な主張であっても、弁護人は被告人の味方としてその主張を裁判においてぶつけなくてはならない。社会正義やら公益を考えるのはむしろ検察の方の仕事であろう。すくなくとも、本件のように一般大衆およびメディアの多くが被告人の敵に回る構図であっても、被告人の側に立って弁護を行う人間が現れるということは、あるべき司法の姿としては望ましいものには違いない。富山や鹿児島の冤罪事件を見聞した後では特に。
自分は死刑制度は存置すべきと思っているし、本件の被告人は死刑に相当するものと思っているし、裁判の見通しとしてもおそらく死刑は免れないであろう。感情のレベルでは被告人の主張は馬鹿げたものと思わざるを得ない。また、弁護団を構成する弁護士の幾人かについては死刑廃止論を含めたこれまでの政治的活動が漏れ聞こえ、あまり自分と立ち位置が重なるところはない。したがって弁護側が有するであろう信条とは自分は相容れないものではあるが、その困難な事案に果敢に挑む弁護団のプロフェッショナリズムについては、素直に敬意を表したいと思う。
司法の正義は、法曹三者がおのれの職責をまっとうすることでその質が保たれているのだから。