教育基本法第10条制定に関する議論

過日、事情があって帝国議会の議事録を調べる機会を得た。そのときついでに、現行の教育基本法制定に際して議会で行われた議論の議事録も見たので、メモ代わりにちょっと書いておく。
ちなみに教育基本法第10条の法文は以下のとおり。

第十条 (教育行政)  教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。
○2  教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S22/S22HO025.html

なお、下に引用する議事が行われたのは、昭和22年3月14日、第92回帝国議会衆議院教育基本法案委員会でのことである。5月の日本国憲法施行を控え、帝国議会としては最後の開会であった。

○永井委員 次に教育行政の問題でありますが、ここに「不當な支配」ということがありますが、「不當な支配」ということは、具體的にはどういうものを指すのであるか。それから國民全體に對して直接に責任を負ふということは、具體的にはどういうことであるか。そうしてこの教育行政については、もちろん地方教育行政法が出るようでありますが、文部省においては内務行政から離れた文部省の直轄行政を目途として計畫を立てておられるのであるか。もしそうだとするならば、その進捗状態はどうであるか、その具體的な實現の見透しはどうであるか、どういう構想であるか、その具體的な内容を承りたいと思います。

○辻田政府委員 お答え申し上げます。第十條の「不當な支配に服することなく」というのは、これは教育が國民の公正な意思に應じて行はれなければならぬことは當然でありますが、從來官僚とか一部の政黨とか、その他不當な外部的な干渉と申しますか、容啄と申しますかによつて教育の内容が隨分ゆがめられたことのあることは、申し上げるまでもないことであります。そこでそういうふうな單なる官僚とかあるいは一部の政黨とかいうふうなことのみでなく、一般に不當な支配に教育が服してはならないのでありましてここでは教育權の獨立と申しますか、教權の獨立ということについて、その精神を表わしたのであります。
 次の「國民全體に對し直接に責任を負つて行われるべきものである」と申しますのは、さればとて、教育者が單なる獨善に陷つて、勝手なことをしていいということではないのでありまして、教育者自身が國民全體に對して直接に責任を負つておるという自覺のもとに、教育は實施されなければならぬということを徹底いたしますために、まず教育行政上において教育自體のあるべき姿をうたつたわけであります。なお第二の點といたしまして、教育行政に關する法律についての御質問でありましたが、これは教育刷新の委員會におきまして御意見の御開陳がありまして、それによつてわれわれとしては研究しておりまするが、なおそれぞれ關係筋ともいろいろ打合せして研究をしておるわけでありますので、今ここではつきりとしたことを申し上げることは許されないないのでありますが、大體におきましては市町村とか都道府縣という所に教育委員會を設けて、その民主的な教育委員會において教育行政が運營されるというふうな考え方でございます。

あらためて読むと、なかなか面白い。「さればとて、教育者自身が単なる独善に陥って勝手なことをしていいということではない」などのくだりは、真っ当なバランス感覚を感じさせる。
教育に対する「不当な支配」という言葉を聞くと、僕はしばしば、教育委員会などの行政当局による教師達への干渉を想起してしまう。現場で子供達と真摯に向き合う教師達に対し、強権的に教師を管理しようとする行政、そして板ばさみになって頭髪を減らす校長先生という構図を。なんだかプロジェクトXみたいだが。
けれども、「不当な支配」の対象となりかねないのは、「教育者」ではなくて「教育」である。行政が無謬ではないように現場の教師達もまた無謬ではない。少なくとも生徒にとっては、めったに会わない教育委員などよりも日々接する教師のほうが、よほど権力者であり支配者である。教育者だって教育を「不当に支配」する可能性はあるだろう。
半径5TB的な印象だが、教育基本法改正に関する議論が喧しい。行政による厳しい管理に不安を抱くのはもっともだが、同様に現場における教育者をどのように律するかを議論に入れなくては、その批判も片手落ちじゃないかと思う。