知のセンターハーフ

半年前のエントリについて、いまだにグダグダと考えているわけですが。
専門知への不信 - The best is yet to be.
「高度化・複雑化する現代社会において」などという枕詞を付けなくとも、あらゆる専門的知見は門外漢から見ればブラックボックス的である。専門家と大衆の間に隔たりがあるのは当たり前。問題なのは、その隔たりに橋が架けられていないために、専門家の知見が一般大衆に届かない事にあるのではないか。
マスメディアは大衆の感情的な声はどんどん拾うけれども、専門家の分析や考察を積極的に届けようとはしていない、という印象がある。マスメディアの側にしてみれば、小難しい情報や面倒な理屈をわかりやすく紹介するのは労多くして益少なく、そもそも大衆は啓蒙を好まないということもあり、わざわざ専門知を届けるインセンティブは少ない。専門知が啓蒙されて得をするのは当の専門家ぐらい。一方、大衆の声は振りまけば振りまくほどその事柄を知らない他の人々から支持を得られる可能性は大きく、これは大衆に擦り寄る十分な理由になる。
かつての立花隆は「知の巨人」なんて言われていて、まあ今ではいろいろと批判もされているけれど、やはり彼ほどの知識量を身に付けることは、普通の生活をしていたら困難。大衆は多忙だ。そして現代社会では、知識が無いことには批判も批評も難しい。個人的には出来るだけ多くの事柄を弁識できるように知識と智恵を身に付けておきたいとは思うけれど、限界はある。
スペシャリストに伍して論陣を張ることは、同じ分野のスペシャリストでなければ難しい。どんなスペシャリストも自分の職能の外に出たら門外漢だ。世の中のあらゆる事柄に精通することはできない。そもそも人々の大半は一流のスペシャリストですらない。有象無象、二流三流に囲まれて一流の専門人が存在する。世界には特別な人しかいないわけではない。人はボンクラが9割。
山の頂に鎮座する一流の専門家と、裾野に広がる大衆。その中間領域は結構モザイク的で、たぶん頂上直下には一流に迫らんとする「気鋭の専門家」が群雄割拠しており、ふもとに近づけば近づくほど「物好きな一般人」の割合が増える。そのヒエラルキーも分野によってくるくる変化する。そんなイメージで僕は捉えていて。
実際にはきちんと専門教育を受けた人というのは他の分野についても論理的思考を重ねることはできるだろうし、ズブの素人よりよほどましだとは思う。けれども、知的水準で中間領域にいる人が、必ずしもその分野について積極的に発言するとは限らない。なぜならトップ層は自分よりはるかに論理的で説得力ある発言を行うことが出来るし、自分のつまらない発言によって議論を停滞させたりしたくない。中間層はおのれの身の程を知っている。それに、下手なことを言って大衆の不満を買うのは無益。専門外の分野で失言して、万一キャリアに傷がついては大変だ。
個々の分野において、そのグランドデザインまで考慮に入れて発言できる専門家は大衆に比べればはるかに少なく、そしてそれら専門家からすれば、大衆の感情的な声はノイズ。問題解決の役には立たない。では「愚民は黙る」べきなのか?実は僕はそうとも思っていない。あらゆる専門領域は、その大衆の幸福と利益に資するためにあるのであり、当の大衆の声を抑圧してもあんまりいいことはないんじゃないだろうか。
ちょっとサッカーに例えてみよう。自陣ゴール前で敵FWがシュート体勢に入ったら、味方DFはファウル覚悟で止めにいくだろう。あるいはスルーパスを出されたら、例えスローインを取られるとしてもライン外にボールをクリアするだろう。セーフティファーストな場面での守備は、まさしく点を奪われないことにプライオリティがあるのであり、蹴ったくりで危機を回避することを誰も責めたりはしない。
とはいうものの、DFが前線に跳ね返したボールをいちいち味方 FWが拾いにいっていては、こちらの攻撃は成り立たない。有効的な攻撃を行うためには、DFとFWの間で「中盤がボールをつなぐ」ことは必須である。DFが弾き返したボールを、MFがパス回しでつなぎ、FWがゴールする。欧州トップモードからすればちょいとクラシカルだけど、どこにでもあるありふれたサッカーの戦術。
それぞれの分野、それぞれの論壇で、社会の厚生改善に資するべくシステムを構築するのは専門家の役割。一方、自分たちが営む世間を侵害するような状況が立ち現れたとき、大衆が激発し、感情を迸らせ、思索を行わずにものを言うこともよくあること。足りないのは、空白になった中間領域を埋める存在。専門家と大衆の間に橋を架け、ともすればノイズで混乱しがちな理路を丁寧にビルドアップする人々。狂熱の火を理性の灯に変えて前線につなぐ、知のセンターハーフ
情報発信コストがこれだけ下がった世の中だけど、大衆は相変わらず「難しいことはわからない」。だから流通する情報は大衆寄りになる。それはそれで仕方がないことであって、大衆蔑視に至っても何も始まらないだろう。けれども、やはり俗情と結託するところに正義は生まれない。というか、社会正義なるものは社会の様々な構成員の活動の総体として実現されるべきものであって、大衆に宿るわけでもなければ、専門家が独占するものでもないはずだ。うまく言えないが、個々の専門家はまずその人の職能をまっとうすべきで、その職能が他分野とバッティングするとか、合成の誤謬を生んでいるような状況であれば、メタな視点から調整する必要があるけれど、社会正義の実現のために職能を捻じ曲げるようなことはすべきではない。まして世間が正義を定めるようなことはあってはならない。
部分最適を追求すると全体最適を阻害するというような事例は確かにある。しかしながら、だからといって部分最適は悪で全体最適が善ということにはならない。部分最適の積み重ねが全体最適に至らない「ことがある」というのが正確なところ。部分最適を集めて全体最適に至るのは理想的な形だし、もしダイレクトにそうならないとしたら、それは部分最適の集め方・編み方に何か齟齬があるんだろう。専門分野同士をジョイントすること、そして専門家と大衆の間で水を運ぶこと、そんなポリバレントな役割を担いうる人材を、時代は要請しているのだと思う。
(追記)
忘れていた。このエントリの内容は、玄倉川さんのエントリmedtoolzさんのエントリに啓発されている。何度か書きなおしたのであまり反映されていないように思われるだろうが。ひとまず謝意とともに、TBしておきます。