J2第27節・アビスパ福岡−横浜FC

終了直前まで「敗れてなお俯かず」って書く気でいたら、またも逆転で勝利を手にした。篠田は運を持っているな。

アビスパ福岡3−2横浜FC
得点:池元(20,58分)久藤(57分)佑昌(88分)ジャンボ(89分)
GK 1神山竜一
DF14中村北斗(→ 布部陽功 HT)
DF13柳楽智和
DF 2宮本亨
DF17中島崇典
MF 7久藤清一
MF 3山形辰徳
MF10城後寿
MF 8タレイ(→ 中払大介 HT)
FW19大久保哲哉
FW20ハーフナー・マイク(→ 田中佑昌 64分)
http://www.jsgoal.jp/result/2008/0720/20080200030220080720_detail.html

前半の出来はイマイチ。サイドから幾度となくアタックを試みていたが、クロスの精度やコンビネーションが良くなくて、相手にとって危険なプレーには至っていなかったと思う。守備も同じく、組織的に動けてはいなかった。暑い中で頑張って走ってはいるものの、相手のアタックに即応力を発揮できず、後手に回って追い回す場面が目につく。後手に回る展開だと体力面より先に精神的な疲労が蓄積して、ますますキレを失う悪循環に陥りがちなんだけれども。この試合では気持ちを切らさず、最後まで闘志を失わなかったことが勝因と言えるかね。横浜の方は後半にガクッと足が止まったしね。
池元の2得点は見事なものだったが、1点目は北斗がズルズルと下がったところをうまくステップワークでコースを作られて撃たれ、2点目はこちらがPKで1点返した後の集中力が切れがちなところで、簡単にバイタルに侵入させてしまって撃たれと、ともに前監督時代の悪癖が残っている部分。篠田監督には早急にこれを修正してもらいたいところ。特に中盤における守備の拙劣さは昨シーズンからずっと引きずっているところで、どこのチームもここがアビスパの急所と了解している。決して攻撃が売り物ではない横浜に2点取られたということを、重く見るべきだろう。
後半になって、痛んだ北斗とサイドであまり働けていなかったタレイを下げ、ボランチに入っていた辰徳を北斗の代わりに右SBに配置、空いたボランチに布部を投入し、左SHにはハライを入れる。攻守ともに機能しなかった北斗のアウトは当然として、タレイを出すのはどうだろうか?ハライを左SHに入れるならタレイを辰徳の位置に置いて城後とドイスボランチを組む方が良かった気がするが。タレイの配球と中盤での競り合いは効果的だったので、うまく共存の道を探ってほしいものだ。マイクの動きが向上しないようなら、大久保1トップで4-5-1という手もあろう。
後半にアツとカズが下がったころから、横浜の運動量はかなり落ちていたように思う。一方、こちらは佑昌を投入してから一層、攻めに冴えが出だした。ハライは2度ばかりシュ−トチャンスで盛大にフカしたものの、巧妙な突破で相手DF陣を攪乱させ、佑昌の快足は相変わらず脅威を与え続けていた。前監督時代はSHで先発することが多かった佑昌だが、タスクが限定され目的が明確なスーパーサブの方が今は合っているのかもしれない。
同点ゴールおよび逆転ゴールについては下に映像をリンクしておくとして、終盤にこちらが攻め達磨になってからのレベスタの雰囲気は本当にすごかった。実はこの日はスポンサーがうちわを1万枚配布していたのだが、明るい黄色のうちわを持って観客が手拍子で応援しているので、メイン、バック、ゴール裏で観客がそれぞれ手を叩く様子が視覚的にもはっきりとわかり、スタジアムの一体感が声だけでなく見た目でも演出されていた。そんな中での劇的な逆転勝利。夏休みということで家族連れのお客さんがいつもより多く来ていたので、願わくば小さな子供たちがアビスパ福岡というクラブに熱中するきっかけとなって欲しいところだ。
試合映像は以下に。
YouTube - 福岡vs横浜C
YouTube - '08.7.20 アビスパ福岡 VS 横浜FC ロスタイム歓喜の逆転ゴール!!!
アビスパ福岡 ダイジェスト
お馴染みになってきたレベスタ劇場もこちらに貼っておく。
城後・大久保・布部がそれぞれサポとともに熱唱。

J2第26節・アビスパ福岡−徳島ヴォルティス

観戦記を書くのは1ヶ月ぶりかな?その間もずっとレベスタに通ってはいたけれど、とても何か書こうとは思わなかった。不甲斐ない負けっぷり、実力を発揮しれない我がチームを見るのがつらくて、ただ崩壊していく様子を見届けるだけでいっぱいいっぱいだった。そんな中で、恥に恥を重ねるような監督交代劇を経ての、この一戦。衰亡の一途を辿る中、それでも、願わくば一筋の光明たらんことを。

アビスパ福岡2−1徳島ヴォルティス
得点:倉貫(10分)久藤(44分)大久保(84分)
GK 1神山竜一
DF14中村北斗
DF 2宮本亨
DF 3山形辰徳
DF17中島崇典
MF 7久藤清一
MF 6布部陽功
MF10城後寿(→中払大介79分)
MF 8タレイ
FW 9黒部光昭(→田中佑昌65分)
FW20ハーフナー・マイク(→大久保哲哉46分)
http://www.jsgoal.jp/result/2008/0713/20080200030420080713_detail.html

フォーメーションはオーソドックスな4−4−2。守備をマンマークからゾーンに戻していたが、さすがに新監督2日目で修正しきれるはずもなく、前半の守備はグダグダだった。中盤の選手も走りまわってはいたものの、相手の流動的な攻めに振り回されるばかりで、バイタルがポッカリ空くいつもの場面も相変わらず。先制された局面以外でも、DFが後手に回るケースが多かった。前半だけ見たら明らかに負け試合。
守備陣の不出来が伝染したか、攻撃陣も空回り。2トップのプレイは堅実だが怖さはなく、中盤からはパスが出てこない。両サイドが仕掛けるアタックも深くえぐるには至らず、前半はビハインドで終わりそうな雰囲気だった。前半終了が近づいたころの44分、ナカジがPAに侵入したところで相手選手からファウルを受ける。PKキッカーはタレイかと思ったら、何とスポットに向かうのは久藤。聞くところによると、監督は城後に蹴らせたかったものの、城後が拒否したので久藤が蹴ったということらしい。おい城後、まがりなりにも10番を背負うなら、もっと出しゃばれよ。PKは久藤がしっかり決めて、追いついたところでハーフタイム。
マイクに変えてジャンボを投入して、後半開始。ポストプレーからのオフェンスの構築が格段に良くなった。マイクはせっかくボディサイズで優位に立ってるんだから、その辺をもうちょっと活かして欲しいね。両サイドも効果的なアタックが増えてきて、徳島の堅い守備を崩す場面が散見された。前半に逃していた流れを取り戻しつつあるところで、黒部に変えて佑昌を投入。夏場の消耗の激しい試合で、この快速アタッカーは実にいい仕事をしてくれた。徳島DF陣を再三振り回しておいての84分、同じく途中交代で入ったハライからのパスを右サイドで受け、ステップでコースを作っておいてゴール前に左足でパス。DFラインの隙間をすり抜けたボールを、ファーサイドのジャンボがヘディングで押し込む。いやー、逆転勝利ってどのくらいぶりだろう?やられたらやられっぱなしだったこれまでからは、考えられないな。
ゲーム全体を見ると、とても褒められたもんじゃない。攻守ともにコンビネーションは合わず、ゾーンプレスどころかマークの受け渡しも曖昧で、攻撃もアドリブに頼るばかり。それでも、これから辛抱強く組織を構築していこうとする意志は感じられたし、偶然の産物とはいえ生え抜きの監督が誕生したのだから、サポとしては否が応にも期待は高まる。希望に酔ってエネルギーを充填させていけば、そのうち器に中身がキャッチアップしてくるだろう。「カラ元気でも元気」と思い定めて、チームとともに歩みを進めよう。
最後に、試合終了後の布部劇場をお楽しみください。

貧すれば鈍す

シロクマ先生のエントリを読んで、思い付いたことをメモっておく。
自信をアウトソーシング出来た団塊世代と、それが出来ない氷河期世代 - シロクマの屑籠(汎適所属)
自信を外注できる時代と内製せねばならない時代のどちらが良いかというのはあまり意味がないだろう。生きやすさという面では外注できる時代の方が楽だが、内製を求められる時代に自信を絞り出せる人々は本物の猛者だ。ただ、自信を外部から調達できる時代の方が、幸福の生産量は大きそうな気がする。
イノベーションはポジティブな空間の方が生まれやすいと聞く。ネガティブな言動、あるいは空気と言ってもいいが、そういう雰囲気は創発の阻害要因なのだと。ブレインストーミングでは出されたアイディアを批判しないことが求められるが、これは感情がポジティブな状態の時の方がより視野が広くなり、思考の際に多面的なアプローチが促され、創造性が発揮されるためだ。同様に、ある時代状況下において容易に自信を調達できるのなら、社会の中にネガティブなファクターが発見されても、それに過剰に怯えることなく、より優れた問題解決法にたどり着きやすいのではないか。
「貧すれば鈍す」という古い箴言があるが、ここにおける「貧」とは個人の物質的・精神的な貧しさだけでなく、世の中から豊饒さ、寛容さが失われるような状況も当てはまるのだろう。

ソーシャルスタビライザとしての「労働」

昨日の毎日新聞一面トップでは、秋葉原通り魔事件の加藤容疑者の雇用状態を取り上げていた。以下に引用するが、彼の心が荒んでいく様子がよく伝わってくる。

加藤容疑者は東京都内の人材派遣会社に登録し、自動車組み立て・生産大手の関東自動車工業東富士工場(静岡県裾野市)に派遣され働いていた。工場の職場関係者によると、今年5月中旬から大量解雇のうわさが広まっていたという。そのため、責任者が先月30日、派遣社員十数人を集めて「(当面は)休まず働いてほしいが、派遣社員の中には解雇される人も出る」と説明した。加藤容疑者ら2人はこの説明会に遅れて参加。責任者に「急に言われても何と言っていいか分からない」と返答に困った様子だった。同じ塗装工程で働く同僚にこの後「青森に帰って時給の安い仕事でもみつけようかな」と皮肉っぽく漏らしたという。
ただ、今月3日に一転して雇用継続が伝えられ、加藤容疑者は翌4日「辞めなくてもよくなった」とこの同僚に打ち明けたが、「良かったじゃないか」という同僚の言葉には無反応だったという。同僚は「どうして喜ばないのか不思議だった」と振り返る。
翌5日午前6時15分ごろ、加藤容疑者は工場更衣室で「つなぎ(作業着)がないぞ」と突然大声を出し、壁を殴るなどして暴れ、職場から飛び出した。この1時間半前に携帯電話サイトの掲示板に「おれが必要なんじゃなくて、とりあえずクビ延期」と不満をぶつけていた。6日には福井市ダガーナイフなどナイフ6本を購入し事件の準備を始めた。
秋葉原殺傷:9日前に「解雇」通告 「不要」扱い怒り? - 毎日jp(毎日新聞)

雇用の不安定さが人心を荒廃させ、社会を蝕んでいくというのは、理路としてはシンプルだ。キャリアパスの先が見えない状態、仕事がいつ打ち切られるかわからず将来の計画が立てられない状況では、生活面の安心を得ることが非常に難しくなる。進んでいる道の幅がだんだん広くなったり狭くなったりしたら我々は速度を上げ下げして安定を保とうとするが、霧中の夜道ではそろそろとしか進めない。一歩踏み出した先が地盤の緩んだ崖という可能性だってあるのだから。

犯行前に、ツナギがロッカーから消えていたことで、解雇されると思い込み激怒したとの報道があった。字面だけ追えばそんな小さなことで解雇なんて、と思う。
だが、彼の状況を鑑みるに、まともにコミュニケーションが成立していないので、ちょっとしたことにも過敏になってしまうだろう。
しかも、派遣会社の言ってることと現場の言われていることに食い違いがあり、クビにはならないと派遣会社が言ったところで、会社側が希望する日まで働いてもらうための方便に見えてしまうだろう。
クビにすると言ってしまえば、本人がバックレたり、やる気がなくなったりして生産性が落ちてしまう。
そもそも、数ヶ月で人が入れ替わってしまうので、職に対するこだわりや企業に対する忠誠心が薄くなる。
(中略)
モチベーションの上がらない労働をさせられる時間が増えるだけであり、それはそれで苦痛である。
そういう状況下でツナギが無くなったとしたら、極めて非人間的な方法で、陰湿に解雇を告げてきたと勘違いしてもむべなるかな、だとは思う。
【秋葉原無差別殺傷】人間までカンバン方式 - 何かごにょごにょ言ってます

もちろん、非正規雇用だから彼が犯罪に至ったと言うことはできない。同じように不安定な就労を続ける人間はごまんといて、それらのいずれも無差別殺人事件など起こしてはいない。彼が殺人性向を持った特別なモンスターという可能性はある。
けれども、自分は社会の中に反社会的性向を持った人間は一定数いると思っており、反社会的人間であっても現実に社会を害するような行為を犯さなければそれでいいとも思っているので、彼の反社会性の度合いなどは瑣末な問題と考える。重要なのは反社会的性向を持つ人間であっても実際の行為に至る一線を超えさせないこと、反社会性を暴発させないように人心を安定させることであって、反社会的性向を矯正することではない。どんなクソッタレな思考や感性の持ち主であっても、他人に害をなさない限りはともに生きていこうというのが現在我々が合意している社会のありかたであって、社会の構成員が他人に害をなす可能性を少しでも小さくしようとするのは制度設計を語る大前提である。雇用の不安定さがその人の心を荒ませる一因になるという理屈に肯けるならば、雇用の不安定さを解消することで反社会的行為の暴発を少しでも抑制しうるという理屈も是としうるだろう。重ねて言っておくが、彼が派遣社員でなければ犯罪に至らなかっただろうという主張ではない。今回のような事件の発生可能性を抑えるため、複雑に絡み合っているだろう要因の、せめて一つでも取り除けないかと考えているに過ぎない。
前置きが長くなった。雇用の安定→生活の安定→人心の安定と自分は考えているが、ここではすぐに一つの反論を挙げることができる。すなわち、ベーシック・インカムなり生活保護なりのセーフティネットを充実することで生活の安定を実現すれば、雇用の問題と関係なく人心の荒廃を防げるのではないか、という反論である。しかし、セーフティネットの充実そのものには自分も賛成だが、それによって雇用の問題を度外視できるとまでは考えていない。というのは、福祉制度では「承認」を給付できないからである。
はたらくとははたをらくにすること、という古い言い回しがあるが、肉体労働にせよ頭脳労働にせよ、社会的動物たる人間は少なからず他人に貢献し承認を得たいという欲望がある。はたをらくにすること、すなわち労務の提供によって、労働者は賃金とともに承認を獲得し、充足を得る。働く日常で得られる心の平安はささやかなものだが、世の中は案外、そんなささやかな充足で慰められる人間が多いのではないか。
経済活動は優秀な人間だけでやった方が効率的だ。時間や手間、様々なコストを小さくすればするほど利益は大きい。しかし、優秀な人間に多く稼いでもらってその余剰でもって優秀でない人間を支える、というありかたを自分は支持しない。世の中の大半を占める平凡な人間が、平凡に働き、生活の糧とささやかな喜びを得る。そのささやかな充足が社会を壊乱させるリスクを軽減してきたと自分は考えている。
福祉による給付は、個人が社会と接続する機会を減少させる。社会との接続はもちろんさまざまなストレスを生むが、一方で社会と断絶することによるデメリットも考えておくべきだろう。1993年にECの社会政策グリーンペーパーにおいて「社会的排除」の問題が提起されたが、いわゆる格差社会においてはそれら排除された人々をどのように社会に包含していくかが論点となっている。はてな界隈では、2007年末のNHKスペシャルワーキングプア3」を思い出す向きも多いだろうか。(参考:NHKスペシャル「ワーキングプアIII 解決への道」の感想
当ダイアリでは労働問題を重ねて取り上げてきたが、ここであらためて表明しておく。自分は、労働を通じて社会の安定を達成すべきと考えている。福祉による救済は限定的なもので、就労へのディスインセンティブとして機能してしまうため、サステナブルな社会を構築する際には、むしろ阻害要因となってしまう。それよりも、日々の生活の基盤となる労働という行為を社会政策の中心に据え、もって人間の尊厳と社会的紐帯を回復し、各人がより能動的に社会に参画する機運を育むこと。現代においては、そのような政策的枠組みが求められているのではないだろうか。

怒らないから、何に使ったのか言ってみなさい。

昨日より図書館系クラスタの一部で話題になっている件について。
http://homepage3.nifty.com/riyosha/
インターネットでの反応(pdf)
簡単に言うと、「練馬区光が丘図書館利用者の会」という団体があって、これはどうも地域住民が図書館の利用についてコミットしていくために結成した組織らしい。で、練馬区立図書館の貸出履歴保存問題については2008年1月頃にブログやそのコメント欄で議論が積み重ねられてきたのだけれど、その「利用者の会」がweb上の議論を全文転載して一つのドキュメントにまとめ、組織のHP上にPDFでアップロードしており、それに気付いたbibliobloggerの不興を買った、というのが事の次第。関心を持たれた方は、はてなブックマーク - 「練馬区立図書館貸し出し履歴保存」報道に関して: 東京の図書館をもっとよくする会(旧ページ)からリンクされているエントリでも読んでください。
ま、自分のエントリが当該PDFに転載されているわけではないので、激昂はしていない。webに載せた文章は広く流通して然るべきというのが自分の考えでもあるし。ただ今回の件がうまくないのは、当該PDFが何の目的で作成され、どのように活用されることを意図しているのか、判らない点だろう。
貸出履歴をどう取り扱うべきか、「練馬区光が丘図書館利用者の会」の見解は現時点では判らない。リンクされている「東京の図書館をもっとよくする会」は貸出履歴の保存・活用に否定的だが、当該PDFに掲載されているbibliobloggerの意見はおおむね貸出履歴の保存・活用に賛同、もしくは肯定的な見方を示している。
自分の見解はこうだ。第一に、「利用者の会」がどういう見解を採るにせよ、自身が無断転載を禁じているのに他者が作成したコンテンツを無断転載しているのは矛盾した行動だ。第二に、PDFを作成したということはwebにアクセスできない人向けに資料として作成したと推論できるわけだが、「よくする会」の方にはHPからblogへのリンクを貼っているのに、「よくする会」とは異なる意見のblogにはリンクを貼らないという行為には、これら市民団体一般の思想的傾向とも相俟って、何らかの政治的姿勢を感じさせる。blogへのリンクなんぞ大した手間でもないし、読者の利便性を考えたらむしろリンクの方がよいはずだ。第三に、当該PDFは転載のみで構成されており、「利用者の会」自身の見解は表明されていない。転載のみのコンテンツを何の説明もなくアップロードされるのは、転載される側からすれば大変に不快を感じる行為だ。
というわけでタイトルの点に戻る。何に使ったか判らないから、使われた側は不快感と猜疑心を抱くのだ。可及的速やかに、当該PDFについてのHOWとWHYを明らかにするのがよろしかろう。
関連リンク

引いて楽しむ

seanさんはサポーター論に絡むのが好きだなあ。おれはこういう人を、スポーツ文化のサポーターであると捉えています。というわけで向こうでコメントしてきた。

アメスポでももちろん「特定チームの大ファン」はいますが、掲示板などを見ていると、まあ見苦しい。自チームが負けると「どうせ審判のジャンパイアだ」「「大本営(NBAなら、NBA本部、という意味)」の陰謀だ」とかなんとか。
で、日本のサッカーのサポーターをチラッと見ていても、負けが込むとすぐ監督やフロントや選手を突き上げて暴れて…
そんなふうに試合を見ていて、楽しいかなあ、といつも思っています。
ふたたび - seanの日記 旦⊂(´-` )お茶ドゾー

ちっとも楽しくありませんよ。チームが下り坂にあるクラブとか、負けが込んでいるクラブのサポは、日々がストレスです。我がアビスパもちょうど新しいスポンサーの話が出ていまして、その絡みでいささか気が重くなっています。(参考:J2福岡、「大都技研」からの出資にJリーグが難色 : Jリーグ : サッカー : 九州スポーツ : 九州発 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
何と申しましょうか、サポーターというのはコミットしているクラブの栄枯盛衰を物語として引き受けるところに効用があるのであって、目の前のゲームをコンテンツとして楽しむという消費スタイルとは立ち位置が違うものですよね。欧州では今日からヨーロッパ選手権でして、自分もテレビ桟敷で観戦するつもりですが、こういう試合なら一歩引いて楽しむこともできるかな。

クロ現の「出版不況」を視た

6月4日付クローズアップ現代「ランキング依存が止まらない-出版不況の裏側-」を視た。以下に感想を羅列。
番組中、書店が売りたい本を売ろうとする試みとして「本屋大賞」が紹介されていたが、あれってそういうアプローチなのか。客がランキングで本を選ぶというのなら、そこで供給側が採るべきは新しいランキングを創設することではなく、客の消費行動を変えるやり方ではないのか。実際、本屋大賞とて2位以下は注目されないと番組で語られていた。出版点数が増大しているならなおさら、上位ランキング本ではなく売れ筋の本の関連本を奨めていく方が購入される可能性が高いんじゃないの。リアルな出版物の間にトラックバックは表示されないけれど、書店員やビブリオマニアの頭の中には、おそらく本と本とのつながりが網の目のように浮かび上がっているはず。そういうつながりを消費者に明示していけるなら、書店員の職能をアピールする好機とも言えるわけだが。(関連:http://d.hatena.ne.jp/rajendra/20070818
思うに、ランキング依存とされた消費者のうち、一定数はコミュニケーションツールとして「話題の本」を消費したがったり、あるいはムダ撃ちがイヤで当たりっぽい本を選びたがったりするのだろうが、知っている評価基準が他にない、ということもあるような気がする。これだけ出版点数が増加しているのに欲しいジャンルの本が全く無いということは考えづらく、単に内容へのアクセス経路が限定されているに過ぎないのではないかな、と。良書が埋もれていくことを嘆く声を供給側からしばしば聞くけれど、消費者としては「だったらもっと紹介に力を注いでくれ」と言いたい。何かしら話題になったり宣伝された本を目にして、類似のテーマを扱っていたりモチーフになったりした本を手に取りたいと思うことは、自分にはよくある。新書や文庫では巻末にレーベル内の関連書籍を紹介していたりするけれど、書店側もより貪欲に関連書籍をプッシュしていっていいんじゃないの。少なくとも現状のリアル書店で展開されている関連書籍の紹介は、自分にはかなり物足りない。
ついでに出版不況についても一言述べておくと、単純に情報の流通経路として本が担っていた役割の大部分をweb等が肩代わりしているはずだから、市場規模が縮小するのは当たり前。また、「まちの電気屋さん」が淘汰されたのに「まちの本屋さん」が淘汰されないわけはなく、小さい小売りが生き残る術はかなり限定されていると思う。じゃあジュンク堂紀伊国屋などの大規模な書店がどう生き残っていくかというと、書店員でもない自分にはいまいち読めない。ていうか問題は小売じゃなくてむしろ取次じゃないかという気がするのだけど、この辺に突っ込むと再販制や委託販売に触れないわけにはいかないので、ここらで筆を止めておくか。ともかくランキング依存は単に消費行動の問題であって、出版業界の構造的瑕疵に比べたら小さなものだと思う。
関連:

(追記)
上の「本と本とのつながり」の箇所から、連想検索技術のことを思い浮かべた方もいるかと思う。先回りして言っておくと、それはあんまり面白くない気がする。どれほど優秀な検索エンジン、どれほど人間に近いアルゴリズムを作り上げたとしても、結局その本を読んだわけではない。思うに、実際に人間がその本を読んでいたり書評や周辺議論をチェックしているということ、言い換えれば人間というフィルターを通すことで面白さは説得力を帯びるものであり、その点においてまだまだ機械知性は人間に及ばない*1んじゃないかと自分は考えている。

*1:おれのidにツッコまないように。